教育方針 of 東京朝鮮中高級学校

東京朝鮮中高級学校

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民族自主意識と民族的素養、知・徳・体をかねそなえた人材、祖     
    国と民族、胞社会の発展のために寄与し、日本や国際社
    会で活躍できる人材の育成をめざしす。

朝鮮の歴史や文 化、言語などの民族科目と日本や世界各国の社
    会と自然、代社会や外国語など大学進学や就職をはじめ、
    日本で生活し活動するうえで必要資質の向上につとめます。


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東京朝鮮中高級学校創立70周年を機に学校創立当初からの歩みを沿革史として整理しました。


在日朝鮮人中等教育の始まり

草創期の東京朝鮮中高級学校


東京朝鮮中高級学校は今年創立70周年を迎える。(2016年当時)

 東京朝鮮中高級学校は日本の植民地下で奪われた言葉と文字を取り戻すため、愛国的な1世たちが再び植民地の民になることを決して繰り返さないとの切なる思いを込め、1946年10月5日創立された。

本校は在日朝鮮人初の中等教育機関として開校し、この70年間に高級部2万2千人、中級部8千人の卒業生を送り出した。本校卒業生たちは祖国の発展と在日朝鮮人運動の担い手として貢献し、過去もそして現在も同胞たちが生活する地域で睦まじく豊かな同胞社会を築く上でに中心的な役割を果たしている。



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  校舎全景



 異国の地において主体性と朝鮮人としての民族性を備えた有能な人材を育成してきた70年間の道のりには、敬愛する金日成主席と金正日総書記の温かい配慮と共に、前人未踏の道を切り開いてきた在日1世、その業績を継承し発展させた2世・3世の血と汗、崇高な愛族愛国の志が刻まれている。

 東京朝鮮中高級学校創立50周年を間近に控えた1996年5月、故韓徳銖総聯中央議長は本校を訪れ次のように述べた。

 「東京中高の50年はまさに在日同胞の中等教育実施50年の歴史であり、在日朝鮮人運動の誇らしい50年の歴史である。もし東京中高が創立されなければ今日の総連のすべての分野で、祖国と民族のために活動する有能な人材を育てることは出来なかったであろう。」

 我々は本校創立70周年を契機に教育の質をたゆみなく向上させ、同胞たちの志向やニーズに合わせて学校教育をさらに充実させ、「生徒たちの入学したい学校」、父母たちが「自分の子どもたちを送りたい」魅力ある学校に発展させていく決意にあふれている。全教職員は生徒たちに民族自主意識と民族的素養、正しい歴史認識と科学知識を教え、豊かな人間性と健全な肉体を持ち、同胞社会を守り、日本と国際社会で活躍する人材をより多く育て行く所存である。



 在日民族教育の始まりー「国語講習所」


 在日同胞たちは解放直後、新たな祖国建設の夢を抱き父母兄弟が待つ故郷への帰還を急いだ。帰国を控え「皇国臣民化」教育により母国の言葉と文字、歴史や地理を知らない子供たちに朝鮮の言葉と文字を教えることは緊急な課題であった。

 このような同胞たちの切実な要求に応えるべく祖国解放直後、同胞たちが生活する至る所に「国語講習所」が設置され、在日朝鮮人連盟(朝連)結成(1945.11.15)後はその指導の下で急速に増加した。


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朝鮮人連盟役員(写真前列右から4番目が尹槿委員長)


 東京では、1945年10月新宿淀橋で「戸塚ハングル学院」、三河島の「荒川朝鮮語講習会」、板橋の「板橋朝鮮語講習所」等23か所で国語講習所が開講され1946年3月の時点で1700余名が朝鮮語を習っていた。

 「戸塚ハングル学院」では、李珍珪(前総聯中央第1副議長) が講師となり国語を教え、彼が執筆・印刷した「ハングル教本」は、日本各地のハングル学院で教材として使用された。足立では後に朝鮮中学校の校長になる林光徹が「足立国語講習所」で教え、「荒川朝鮮語講習会」では朝連荒川支部委員長であった宋奉玉(東京朝鮮第一初代校長)、朴静賢(元女性同盟中央委員長)、朴尚牛らが教えその後、金哲禹、金昌鉉(元東京朝鮮第一校長、総連中央教育局長)らが加わった。

 同胞たちは祖国への帰国を急いだが、1945年8月24日に帰郷する同胞3700人を乗せた「浮島丸」が舞鶴沖で爆沈するなど、日本当局の妨害で帰国はなかなか進まなかった。しかも南朝鮮では米軍が軍政を敷き、政治の混乱と社会不安が日を追うごとに増していった。こういった状況の中、帰国したにも関わらず、故郷に住むことも出来ず日本に戻らざるを得ない境遇の人々も多く、同胞たちは帰国できるめどが立つまでやむを得ず日本に滞在することを余儀なくされた。

 このような状況は日本の地で正規の学校をつくり民族教育を実施することを現実問題として提起したのであった。



 朝連学院と教科書編纂


 1946年1月、朝連は第1回全国文化部長会を招集し、子供たちにに母国語での初等教育をすることを決定した。国語講習所は1946年4月から初級、中級、上級の3年制の初等学院として統合整備し、名称も「○○朝連初等学院」と統一された。その年9月には6年制の正規の学校に再統合され、国語、歴史、地理、算数、体育、音楽などの科目を中心とした授業が実施された。 

 こうして東京では国語講習所で学ぶ3400人以上の受講生たちが22か所の朝連学院で学ぶことになった。

 正規の教育体系を確立した朝連初等学院では全科目の教材作成が急務の課題として提起された。経験もなくこれといった参考資料もない中、1946年2月、在日朝鮮人民族教育において最初の教科書編纂委員会が発足した。

 編纂委員は国語;李珍珪、朴煕成、算数;金尚起、金京煥、蔡洙鋼、理科;朴俊栄、任煐準、歴史;林光徹、地理;李殷直、魚塘、音楽;尹紀善、韓春愚、図画;朴盛浩、李仁洙、公民;李相尭の15人であった。




教科書編纂委員会.png


  教科書編纂委員会




朝連文教部が出版した教科書.png

  朝連文教部が出版した教科書


正規教育体系である初等学院が開設され、民族教育の継承性を保証する朝鮮中学校の設立は、焦眉の急であった。この要求を最も敏感に捉えたのは東京都内の国語講習所の教員たちであった。彼らは1946年4月、国語講習所が3年制初等学院に再編成されたことをきっかけに、中学校の設立問題を朝連東京都文化部に提起した。

その頃、在日朝鮮人連盟中央総本部(朝連中総)の文化部でも「朝鮮中学校を創立すべき」との意見が多く朝連中総で論議されることとなった。当時朝連中総は新宿の朝鮮奨学会の建物から、新橋にあった解放前「朝鮮総督府」東京出張所の建物に移った直後だった。

このように中学校設立問題が持ち上がったものの、当時朝連活動の中心は同胞たちの帰国支援であった。 さらに同胞の意識の中にも「在日朝鮮人が小学校を運営するのも大変なのに中学校なんてとても」という考えがあった。それは一部朝連幹部の考えでもあった。

このような学校運営のおける民族虚無主義的傾向は長い間克服されず、また中学校設立を積極的に後押しする人も無い中、朝鮮中学校設立問題は、何回か論議されるもうやむやになってしまった。

東京で朝鮮人中学校設立が朝連の方針として具体的な形を表したのは、朝連中総文化部が文化教育局にかわり、韓徳銖青年局長が文化教育局長に就任した以後であった。



東京朝鮮中学 建設期成会


1946年6月1日、朝連は全国30か所の朝連本部文化部長を招集し、第2回全国文化部長会議を行った。

会議では、朝連東京文化部代表の問題提起により東京都内の朝鮮人中学校、または夜間中学校を設立する問題が討議されていた。討議内容は朝連中総に報告され、朝連東京都本部は東京朝鮮中学校設立問題を具体的に協議した。その後東京都内朝連支部委員長有志懇談会が開かれた。有志懇談会形式にしたのは中学校設立に消極的な委員長が多かったので中学校の設立に積極的な委員長を中心に会議を行わざるを得なかったためである。

当時東京で朝鮮人中学校の設立問題に積極的な関心を持っていた朝連支部は、荒川、足立、深川、板橋などの支部であった。これらの朝連支部は例外なしに初等学院の運営に最も「教育熱心な支部」であった。

支部委員長懇談会は朝鮮人中学校の設立を積極的に支持した。しかし全体的にはまだ機運は熟していなかった。

朝連中総文化教育局と東京本部が中心となり、複数回にわたり行われた有志懇談会では学校建設資金について集中的に協議された。有志懇談会では資金の問題を解決するため「有力者」の協力を得ることが決議された。

8月1日に中学校設立のための第1回準備委員会が朝連文化部で行われ、8月18日に「東京朝鮮中学校設立期成会」が発足した。期成会は、教務 (教員確保、教科書編纂)、設備 (学校設備)、基金 (財源確保) の3つの分科で構成され、期成会長には孫芳鉉に決まった。彼は1925年に日本に渡ってきた朝連中総顧問であった

建設期成会は朝鮮人中学校設立の主旨を次のように指摘した。

「我々は独立した朝鮮人として、1日も早く民族の言葉や文字を取り戻し虐げられた朝鮮の文化を再建するために全国で初等学院を設立し、私たちの教育を開始した。

当初は1日も早く帰国して祖国の建設に貢献する考えであった。しかし、今日諸般の情勢は早急な帰国を許さず、日本に生活の根拠を置く同胞も少なくないために、同胞子弟の教育は切迫した問題になった。

従ってここに我々の中学校を設立することを訴えるものである。」


開校準備は大きな困難の中で行われた。

朝連中総文化教育局と期成会は関東地方の同胞たちを招待して、東京朝鮮中学校建設準備のための懇談会を9月5日東京目黒にある雅叙園で行い、その数日後、学校建設資金を集めるための説明会を上野精養軒で行った。この集いに約100人が集まり学校建設資金として170万円が記帳された。

このような雰囲気のなかで「東京で朝鮮中学が開校される」という噂は広がり、開校を願う生徒、同胞の声はますます大きくなっていった。記帳された募金を集めることは後にしても、すぐにでも中学を開校しなければならなかった。

当時在日同胞たちには財産と呼べるものも無く、一定の収入がある仕事を持っている人も多くなかった。中学校を運営した経験も、準備された教員も、必要な物資も無かった。「初等学院でも大変なのに」と中学校設立に消極的な意見を持つ同胞も少なくなかった。実際、学校を立てる敷地も校舎も無かった。

しかし祖国の未来を背負う人材を育成するために同胞たちと朝連の活動家たちは、度重なる困難を1つ1つ乗り越え朝鮮中学開校を急いだ。

しかし東京朝鮮中学校期成会は東京都庁と交渉し、戦災地の焼跡の建物を借りて校舎として使うなど、消極的な態度に終始していた。

時間は流れて行った.朝連中総文化教育局の人々は焦燥感に駆られていた。祖国の新学年度に合わせた9月の開校計画につまずきが生じていたのである。



東京朝鮮中学校の敷地を確定 (旧日本軍の兵器廠に行く)


このような時であった。朝連板橋支部尹徳昆委員長が朝連中総に韓徳銖文化教育局長を訪ねたのは。

尹徳昆委員長は朝連初等学院の運営に人一倍情熱を持ち、国家と民族が繁栄するには、教育をしっかりしなければならないとの持論を持っていた。

彼は校舎として使える建物が無いか探しまわり、板橋区役所に「校舎を斡旋してほしい」と何度も要請を繰り返した。彼は同胞の生活の問題や帰国問題など、区役所に足しげく訪ねていたので、区長や助役など区役所職員たちと顔なじみになっていた。

そんなある日、区役所の職員から朗報が舞い込んできた。以前日本軍の兵器廠として使われていた土地があるという話であった。それを聞くや否や、尹委員長は区長との度重なる交渉を行った。その土地は大蔵省の管轄下にあったが、日本の敗戦後東京都に移管され東京都が管理を所在地の板橋区に任せた状態であった。板橋区は土地の使用許諾についても委任を受けていた。そして交渉の結果、朝鮮中学校の敷地に使うことが出来るようになったのである。

校地、校舎の問題が解決せず頭を痛めていた韓徳銖文化教育局長は尹徳昆委員長から板橋区長との交渉経過を聞き、あまりの嬉しさに尹委員長の手をかたく握った。どれだけ有難いことだったか。







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 朝連板橋支部尹徳昆委員長



韓徳銖文化教育局長と何人かの文教局のメンバーが尹徳昆委員長に連れられ現地に向かった。朝連板橋支部の人々や青年同盟の若者たちが門の前で待っていた。その場所は省線電車十条駅の近くで上十条( 現在の学校の場所) にあった。入口の大きな門が雨風で灰色に変色していた。

 門を開き中に入った人々は期待とはあまりにかけ離れた光景に茫然とした。敷地は予想以上に広く樹木と雑草が茂った荒れ地であった。苔むした木造の火薬貯蔵庫の建物が数棟立っていた。所どころに深い水溜まりがあり敷地の奥には大きな山があった。

 人々はあまりにもひどい現場の様子に落胆し言葉も無かった。

 しかし、時間が無かった。ここより良い敷地を探せる見込みも無かった。少し手を加えれば何とか教室として使える建物が数棟あり、ここに決めざるを得なかった。

 「これらを全部使ってもいいのだろうか?」

 背丈を超える雑草をかき分け敷地内を回り終えた韓徳銖文教局長が尋ねた。彼の心には山が削られ、立派な校舎が建ち、広い運動場でスポーツに汗を流す生徒たちの元気な姿が浮かんでいた。

 「必要な広さだけ使ってよいとのことです。」尹委員長が答えた。

 「敷地が広いことが気に入った。立地条件もいいし…これからいくらでも良くすることが出来るじゃないか!」

 人々のやるせない気持ちを奮い立たせるような文教局長の大きな声だった。

 現地踏査後、尹委員長は板橋区牛田正憲区長や助役たちと度重なる交渉をした。

 尹委員長は彼らに日本の植民地下で朝鮮人を「徴兵」、「徴用」し炭鉱や軍需工場などで牛馬のように過酷な労働を強いたこと、「皇民化教育」や「創氏改名」を強要し、我々の言葉や文字、名前まで奪った世界に類例がない日本帝国主義の悪行を断罪した。

 尹委員長は、奪われた民族の言葉や文字を取り戻し、新しい朝鮮を建設する人材を育てるためには必ず中学校を必要とすること、朝鮮人に与えた罪を償うためにも無償で旧兵器廠の敷地を使用できるようにすべきだと強く要求した。

 板橋区長は関東財務局に旧兵器廠跡を朝鮮中学の敷地として使用できるように要請した。関東財務局王子出張所は尹委員長が提出した「雑種財産一時使用認可申請」を 1946年9月20日受理し、「建物使用許可」を承認した。

このとき、土地使用料の契約は校舎の建設が開始された後に正式にすることになっていたが、「都立に移管」されるまでの間と「都立時代」は、土地を無償で使用した。「都立」の看板をおろし東京朝鮮中高級学校として再出発した1955年4月、東京朝鮮学園は関東財務局東京財務事務所と賃貸契約を結んだ。土地の使用料は1年間で139万1千円であった。




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  土地使用申請書 1946.9.26



建物使用承認書1946920.jpg


  建物使用承認書 1946.9.20




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  学校設置認可書に添付された校舎配置図 1946.11.4

 生徒募集および入学試験


 生徒募集は9月中旬から開始された。まだ校舎の準備もできず机、イス、黒板など教具も揃っていない状況で学校を始めることが出来るのかと心配する人たちもいたが、これ以上遅らせることは出来なかった。

 東京本部や朝連中総には「いつ中学校が出来るのか?」と同胞たちの催促が相次ぐ中、朝連文教局は祖国の新学年度開始に合わせ9月中に開校するための準備を進めた。生徒募集要項と入学願書をつくり、朝連の各本部と都内の支部、初等学院に送付した。

 募集締め切りまでわずか10日間しかなかったが、入学試験当日までに300人以上の生徒が願書を提出した。入学試験は、朝連中総(新橋にあった旧「朝鮮総督府」東京出張所)文教局の事務室で実施された。朝連初等学院の生徒たちが教員に引率され集まって来た。女子生徒の中にはチマ・チョゴリ姿の生徒もいた。東京だけでなく栃木、茨城など遠方から来た生徒もいた。

 試験といっても筆記試験はなく、面接試験だけであった。試験官は文教局の中学校開校準備をしていた若い職員たちだった。

 面接後、朝連中総文教局の職員が受験生たちをビルの屋上に連れて行き中学校開校の準備状況を説明した。朝鮮語を聞き取れない受験生が多いので日本語で話をした。文教局の職員は「池袋近くの十条にある兵器廠跡で、今は雑草に覆われ廃墟のような所に朝鮮中学校を作る」ことや「学校建設のための資金や用具は足りないがこれ以上遅らせることが出来ないので10月5日に開校式をする」ことを話した。

 職員の話を聞いた受験生たちは「そこがどんなにひどい所であろうとも私たちの中学校が出来るのは嬉しい」と喜びを熱く語り、希望に胸をふくらませた。

 この入学試験では中学の年齢に達していない生徒を除いて全員合格となった。その後開校式の前日までに入学を許可された生徒もおり、それらを合わせると入学希望者数は340人になった。そのうち女子生徒は140名であった。このようにして「在日朝鮮人中等教育の始まり」となる東京朝鮮中学校の開校準備は進んでいった。



 朝鮮中学校の開校(在日朝鮮人中等教育の開始)


 1946年10月5日。

 前日まで降っていた雨がやみ澄んだ秋空が広がった。朝早くから同胞たちと新入生たちは東京十条に向かっていた。何人かの女子生徒は祝祭日に着るようなチマ・チョゴリ姿で集まって来た。入学試験のときはあのように喜んでいた生徒たちだったが、一方で校内は荒れた兵器廠跡のままであり、期待が大きかっただけに失望したような気配も見られた。朝鮮中学校が開校されたとのうわさを聞いた同胞たちもこぞってやって来た。いつの間にかその数は500人をはるかに超えた。

 七千坪の学校の敷地には雑草が繁り日本軍が使っていた壊れた武器が散在していた。敷地の横にある米軍の実弾射撃場(現在運動場横のアパートが建つ場所)で機関銃を撃つ音が間断なく人々の鼓膜を打った。しかし同胞たちと生徒たちはそれも目に入らないかのように喜びに満ちていた。


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 入学式1946.10.5


午前11時

歴史的な開校行事、入学式が開始され「解放の歌」が鳴り響いた。


  解放の歌              해방의 노래

1.朝鮮の大衆よ聞いてみよ     1.조선의 대중들아 들어보아라

 強く鳴り響く解放の日を       우렁차게 들려오는 해방의 날을

 示威者が鳴らす足音と        시위자가 울리는 발굽소리와

 未来を告げる叫び声         미래를 고하는 아우성소리


2労働者と農民は力をふりしぼり  2.로동자와 논민들은 힘을 다하여

 敵に奪われた土地と工場       놈들에게 빼앗겼던 토지와 공장

 正義の手で取り戻せ         정의의 손으로 탈환하여라

 奴らの力など恐れることはない    지놈들의 힘이야 그 무엇이냐


 尹槿校長が挨拶をした後11人の教員、林光徹(歴史)、崔泰鎮(体育)、金斗昌(国語)、柳根悳(社会)、朴燦根(美術)、李殷直(国語),任燦準(理科),李興烈(社会),宋正鉉(英語)、朴俊栄(数学)、金昌徳(美術)が紹介された。

 実は開校式の前日まで校長は決まっていなかったが、当日の朝に朝連中総の尹槿委員長(当時49歳)が臨時校長を兼務することとなった。そして李興烈氏 (当時35歳) が事務主任、朝連中総文教局の職員であった林光徹氏 (当時30歳) が教務主任として発表された。

 解放直後結成された朝連の初代委員長が東京朝鮮中学校の校長を兼任したことは、朝鮮中学校の創立が在日朝鮮人運動や在日民族教育とって如何に重要なことであったかを端的に示すものである。尹槿校長は朝連中総委員長だけでなく、朝鮮中学校が開校した2週間後の10月20日には朝鮮奨学会の理事長も兼任した。この解放直後の状況下で朝連の活動は多忙を極め、尹槿校長が学校にいることはほとんど無かった。

 尹槿校長は植民地時代、ソ連の沿海州新韓村で新聞記者として、朝鮮では教員と中央基督教青年会幹事として活動いた。1930年代に日本に渡ると東京朝鮮基督教青年会総務を務め、日本大学高等師範部で学んだ経歴を持つキリスト教信者でもあった。


 開校式では新入生329名の名前がよばれ、荒川初等学院出身の新入生が次のように決意を述べた。

 「初等学院で朝鮮の文字と言葉を習いました。毎日『朝鮮人、朝鮮人』と蔑まれた日本の学校とは違い、朝鮮の友達と一緒に勉強が出来て嬉しく思います。朝鮮中学校初の新入生として朝鮮の言葉、歴史と文化を学び立派な朝鮮人となり、祖国建設の担い手になれるように一生懸命勉強します。」

 新入生の挨拶に続き朝連板橋支部尹徳昆委員長が挨拶し「東京朝鮮中学校の創立は民族史に残る歴史的な日であります。在日同胞が力を合わせ東京朝鮮中学校を運営して行きましょう。」と訴えた。

 開校式が終わると同胞、教員、朝連の活動家たちも喜びを抑え切れずに「もう大丈夫だ」、「我々の願いがかなった。」と互いに手を取り合った。開校式の準備をしてきた担当者たちは感激と喜びに満ち、彼らの目からは熱い涙がこぼれ落ちた。

11月5日には父兄会を立ち上げた。初代会長には自分の息子を朝鮮中学校に入学させた板橋支部尹徳昆委員長が推薦された。また、11日には建設期成会が解散し学校運営委員会として再出発し孫芳鉉氏がそのまま運営委員長となった。




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    各種学校認可書 1946.11.8





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    定期券発行承認書 1946.11.25



 通学定期券は十条駅と交渉して、開校式の日から購入することができるようにしていたが、10月7日に東京鉄道局に提出した定期券発行申請書は翌月25日に承認された。

 さらに11月8日には各種学校として東京都知事から認可された。

 1946年11月2日付で朝鮮中学校期成会が東京都に送った「東京朝鮮中学校設立申請書」には、設立趣意を次のように記した。

 「教育が人類発展向上に如何に重大かは今さら論ずるまでもなく『歴史はたゆみなく発展する』という鉄則に従って、我が朝鮮も今日、解放国民として輝かしい独立が約束されている。現在母国語を知らない在日同胞たちに国語を教え、朝鮮文化を再建するために全国で初等学院を数多く設立したにもかかわらず、初等教育以上の教育を与える適当な中等教育機関がまったくない状況である。当面の緊急課題である中等教育機関の設置こそが私たちにとって火急の問題である。ここに多くの同胞有志の積極的な援助と鞭撻により、さる10月5日に在留朝鮮同胞子女の教育機関として東京朝鮮中学校を設立した。」


 開校直後の状況


 東京朝鮮中学校は創立された。

 しかし学校とは名ばかりであり、黒板も机もイスもまともに無かった。雨が降れば天井から雨漏りがした。天気がよければ校内の草むらで勉強し、天気が悪ければ教室のコンクリートの床の上で勉強した。

 この時の状況を卒業生たちは当時を回想して次のように語った。

「教室はもともと弾薬倉庫だったところですが、一部がくずれて穴があき雨が降れば雨水が漏れ、天気が良くても風が吹くとほこりが飛んで来ました。窓枠はありましたが窓が無かったのです。しかし.そんなことは大きな問題ではありませんでした。机も教科書も粗末なものでしたがみんなが朝鮮の子供たちで先生も朝鮮の教師でしたし…。  勉強も朝鮮の勉強じゃないですか! 学校が面白くて楽しかった!東京朝鮮中学校は私たち朝鮮学生の真の学び舎でした。」

授業は午前のみであり生徒たちは時間を惜しみながら勉強に励み、放課後は運動場作りや学校の整備などに汗を流した。

この時期国語、歴史、地理の教科書は朝連文教部で編纂したものを使い日本語、英語、数学、理科などは日本の教科書を使用した。

開校式から数日が過ぎて新しい黒板が、その2,3日後には机とイスが教室に運び込まれた。そのたびに、生徒たちは歓声を上げた。彼らはまるで土木工事労働者のように学校を整備するために働いた。日曜日にも生徒たちは学校に来て草を刈り、木の根を掘りおこした。運動場にある山を切り崩しその土で水溜まりを埋めた。生徒たちは自分の手で学校を建設するという喜びにあふれていた。

本校第1期卒業生はその時のことを回想し次のように話した。

「日本の学校に通っていた時祖国解放を迎えた。荒川で初等学院に通い1946年 10月5日に16才で入学した。運動場にはトロッコの線路があり樹木は無造作に茂り、窓のない教室が印象に強く残っている。運動場を整備するため友人と一生懸命労働したことは今でも忘れられない。」

「私の記憶に残る当時の印象は、心おきなく通うことができる自分たちの学校ができた感激とみんながよく泣いたことです。先生もよく泣いたし、私たちも泣きました。」

ある教員は朝鮮地図を黒板に描いて泣き、玄界灘を渡って故郷を離れた話をしながら涙を流した。生徒たちは金日成将軍が率いた抗日遊撃隊の話に感激して涙を流し、李舜臣将軍や沈清伝の話を聞いても涙を流した。



 第二次 入学志望者募集



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 朝鮮中学1期生たち(場所は現在音楽室がある所)
 登山帽は学校が指定した帽子。帽子には1947年当時の学校の徽章をつけていた。写真左の山はその後生徒たちが平らに整備し運動場なった。 

 1946年11月20日、日本を占領した連合国総司令部(GHQ)は「帰国を拒絶し日本に残ることを選択した朝鮮人は、日本の法律に服従する」ことを強要する「朝鮮人の地位および取扱いに関する総司令部発表」を公表した。この「11.20 命令」は日本の法令に従う義務のみを強制するもので、また国際法で保証される外国人の地位と権利を否定する不当なものだった。日本当局は、この「11.20 命令」を根拠に朝鮮学校閉鎖への動きを活発化し始めた。

 このような時期に北朝鮮臨時人民委員会金日成委員長は公開書簡「在日100万同胞に」(1946.12.13)を発表し、在日朝鮮人運動が進むべき道を示した。朝連は公開書簡の内容に沿って1947年1月第9次中央委員会を招集し、長期的になる在日同胞たちの日本滞在を前提に民族教育の方向とそれを実現するための対策を提示した。

 「11.20 命令」が出された混乱の中でも、毎日のように入学志望者が学校を訪れていた。1947年1月に二回目の入学試験を実施し、新たに生徒70人が入学した。

 日本の中学校を1年以上通った生徒と日本の高等小学校 (小学校を卒業して2年間通う学校) を卒業した生徒、そして学力が高い生徒たちで2年生1学級を、残りの生徒たちで1学年を6学級編成された。(続く)