東京朝鮮中高級学校|Tokyo Korean Junior and Senior High School

민족교육
民族教育について

沿革史

草創期

草創期の東京朝鮮中高級学校

東京朝鮮中高級学校は今年創立70周年を迎える。
東京朝鮮中高級学校は日本の植民地下で奪われた言葉と文字を取り戻すため、愛国的な1世たちが再び植民地の民になることを決して繰り返さないとの切なる思いを込め、1946年10月5日創立された。
本校は在日朝鮮人初の中等教育機関として開校し、この70年間に高級部2万2千人、中級部8千人の卒業生を送り出した。本校卒業生たちは祖国の発展と在日朝鮮人運動の担い手として貢献し、過去もそして現在も同胞たちが生活する地域で睦まじく豊かな同胞社会を築く上で中心的な役割を果たしている。

異国の地において主体性と朝鮮人としての民族性を備えた有能な人材を育成してきた70年間の道のりには、敬愛する金日成主席と金正日総書記の温かい配慮と共に、前人未踏の道を切り開いてきた在日1世、その業績を継承し発展させた2世・3世の血と汗、崇高な愛族愛国の志が刻まれている。
東京朝鮮中高級学校創立50周年を間近に控えた1996年5月、故韓徳銖総聯中央議長は本校を訪れ次のように述べた。
「東京中高の50年はまさに在日同胞の中等教育実施50年の歴史であり、在日朝鮮人運動の誇らしい50年の歴史である。もし東京中高が創立されなければ今日の総連のすべての分野で、祖国と民族のために活動する有能な人材を育てることは出来なかったであろう。」
我々は本校創立70周年を契機に教育の質をたゆみなく向上させ、同胞たちの志向やニーズに合わせて学校教育をさらに充実させ、「生徒たちの入学したい学校」、父母たちが「自分の子どもたちを送りたい」魅力ある学校に発展させていく決意にあふれている。全教職員は生徒たちに民族自主意識と民族的素養、正しい歴史認識と科学知識を教え、豊かな人間性と健全な肉体を持ち、同胞社会を守り、日本と国際社会で活躍する人材をより多く育て行く所存である。

始まり

在日民族教育の始まり―「国語講習所」

在日同胞たちは解放直後、新たな祖国建設の夢を抱き父母兄弟が待つ故郷への帰還を急いだ。帰国を控え「皇国臣民化」教育により母国の言葉と文字、歴史や地理を知らない子供たちに朝鮮の言葉と文字を教えることは緊急な課題であった。
このような同胞たちの切実な要求に応えるべく祖国解放直後、同胞たちが生活する至る所に「国語講習所」が設置され、在日朝鮮人連盟(朝連)結成(1945.11.15)後はその指導の下で急速に増加した。
東京では、1945年10月新宿淀橋で「戸塚ハングル学院」、三河島の「荒川朝鮮語講習会」、板橋の「板橋朝鮮語講習所」等23か所で国語講習所が開講され1946年3月の時点で1700余名が朝鮮語を習っていた。
「戸塚ハングル学院」では、李珍珪(前総聯中央第1副議長)が講師となり国語を教え、彼が執筆・印刷した「ハングル教本」は、日本各地のハングル学院で教材として使用された。足立では後に朝鮮中学校の校長になる林光徹が「足立国語講習所」で教え、「荒川朝鮮語講習会」では朝連荒川支部委員長であった宋奉玉(東京朝鮮第一初代校長)、朴静賢(元女性同盟中央委員長)、朴尚牛らが教えその後、金哲禹、金昌鉉(元東京朝鮮第一校長、総連中央教育局長)らが加わった。
同胞たちは祖国への帰国を急いだが、1945年8月24日に帰郷する同胞3700人を乗せた「浮島丸」が舞鶴沖で爆沈するなど、日本当局の妨害で帰国はなかなか進まなかった。しかも南朝鮮では米軍が軍政を敷き、政治の混乱と社会不安が日を追うごとに増していった。このような状況の中、故郷に住むことも出来ず日本に戻らざるを得ない人々も多かった。同胞たちは帰国できるめどが立つまでやむを得ず日本に滞在することを余儀なくされた。
このような状況は日本の地で正規の学校をつくり民族教育を実施することを現実問題として提起したのであった。

教科書

朝連学院と教科書編纂

1946年1月、朝連は第1回全国文化部長会を招集し、子供たちにに母国語での初等教育をすることを決定した。国語講習所は1946年4月から初級、中級、上級の3年制の初等学院として統合整備し、名称も「○○朝連初等学院」と統一された。その年9月には6年制の正規の学校に再統合され、国語、歴史、地理、算数、体育、音楽などの科目を中心とした授業が実施された。
こうして東京では国語講習所で学ぶ3400人以上の受講生たちが22か所の朝連学院で学ぶことになった。
正規の教育体系を確立した朝連初等学院では全科目の教材作成が急務の課題として提起された。経験もなくこれといった参考資料もない中、1946年2月、在日朝鮮人民族教育において最初の教科書編纂委員会が発足した。
編纂委員は国語;李珍珪、朴煕成、算数;金尚起、金京煥、蔡洙鋼、理科;朴俊栄、任燦準、歴史;林光徹、地理;李殷直、魚塘、音楽;尹紀善、韓春愚、図画;朴盛浩、李仁洙、公民;李相尭の15人であった。
正規教育体系である初等学院が開設され、民族教育の継承性を保証する朝鮮中学校の設立は、焦眉の急であった。この要求を最も敏感に捉えたのは東京都内の国語講習所の教員たちであった。彼らは1946年4月、国語講習所が3年制初等学院に再編成されたことをきっかけに、中学校の設立問題を朝連東京都文化部に提起した。
その頃、在日朝鮮人連盟中央総本部(朝連中総)の文化部でも「朝鮮中学校を創立すべき」との意見が多く朝連中総で論議されることとなった。当時朝連中総は新宿の朝鮮奨学会の建物から、新橋にあった解放前「朝鮮総督府」東京出張所の建物に移った直後だった。
このように中学校設立問題が持ち上がったものの、当時朝連活動の中心は同胞たちの帰国支援であった。さらに同胞の意識の中にも「在日朝鮮人が小学校を運営するのも大変なのに中学校なんてとても」という考えがあった。それは一部朝連幹部の考えでもあった。
このような学校運営における民族虚無主義的傾向は長い間克服されず、また中学校設立を積極的に後押しする人も無い中、朝鮮中学校設立問題は、何回か論議されるもうやむやになってしまった。
東京で朝鮮人中学校設立が朝連の方針として具体的な形を表したのは、朝連中総文化部が文化教育局にかわり、韓徳銖青年局長が文化教育局長に就任した以後であった。

建設期

東京朝鮮中学建設期成会

1946年6月1日、朝連は全国30か所の朝連本部文化部長を招集し、第2回全国文化部長会議を行った。
会議では、朝連東京文化部代表の問題提起により東京都内の朝鮮人中学校、または夜間中学校を設立する問題が討議されていた。討議内容は朝連中総に報告され、朝連東京都本部は東京朝鮮中学校設立問題を具体的に協議した。その後東京都内朝連支部委員長有志懇談会が開かれた。有志懇談会形式にしたのは中学校設立に消極的な委員長が多かったので中学校の設立に積極的な委員長を中心に会議を行わざるを得なかったためである。
当時東京で朝鮮人中学校の設立問題に積極的な関心を持っていた朝連支部は、荒川、足立、深川、板橋などの支部であった。これらの朝連支部は例外なしに初等学院の運営に最も「教育熱心な支部」であった。
支部委員長懇談会は朝鮮人中学校の設立を積極的に支持した。しかし全体的にはまだ機運は熟していなかった。
朝連中総文化教育局と東京本部が中心となり、複数回にわたり行われた有志懇談会では学校建設資金について集中的に協議された。有志懇談会では資金の問題を解決するため「有力者」の協力を得ることが決議された。
8月1日に中学校設立のための第1回準備委員会が朝連文化部で行われ、8月18日に「東京朝鮮中学校設立期成会」が発足した。期成会は、教務(教員確保、教科書編纂)、設備(学校設備)、基金(財源確保)の3つの分科で構成され、期成会長に孫芳鉉に決まった。彼は1925年に日本に渡ってきた朝連中総顧問であった。 建設期成会は朝鮮人中学校設立の主旨を次のように指摘した。
「我々は独立した朝鮮人として、1日も早く民族の言葉や文字を取り戻し虐げられた朝鮮の文化を再建するために全国で初等学院を設立し、私たちの教育を開始した。 当初は1日も早く帰国して祖国の建設に貢献する考えであった。しかし、今日諸般の情勢は早急な帰国を許さず、日本に生活の拠点を置く同胞も少なくないために、同胞子弟の教育は切迫した問題になった。
従ってここに我々の中学校を設立することを訴えるものである。」

開校準備は大きな困難の中で行われた。
朝連中総文化教育局と期成会は関東地方の同胞たちを招待して、東京朝鮮中学校建設準備のための懇談会を9月5日東京目黒にある雅叙園で行い、その数日後、学校建設資金を集めるための説明会を上野精養軒で行った。この集いに約100人が集まり学校建設資金として170万円が記帳された。
このような雰囲気のなかで「東京で朝鮮中学が開校される」という噂は広がり、開校を願う生徒、同胞の声はますます大きくなっていった。記帳された募金を集めることは後にしても、すぐにでも中学を開校しなければならなかった。
当時在日同胞たちには財産と呼べるものも無く、一定の収入がある仕事を持っている人も多くなかった。中学校を運営した経験も、準備された教員も、必要な物資も無かった。「初等学院でも大変なのに」と中学校設立に消極的な意見を持つ同胞も少なくなかった。実際、学校を立てる敷地も校舎も無かった。
しかし祖国の未来を担う人材を育成するために同胞たちと朝連の活動家たちは、度重なる困難を1つ1つ乗り越え朝鮮中学開校を急いだ。
しかし東京朝鮮中学校設立期成会は東京都庁と交渉し、戦災地の焼跡の建物を借りて校舎として使うなど、消極的な態度に終始していた。
時間は流れて行った.朝連中総文化教育局の人々は焦燥感に駆られていた。祖国の新学年度に合わせた9月の開校計画につまずきが生じていたのである。

敷地

東京朝鮮中学校の敷地を確定(旧日本軍の兵器廠に行く)

このような時であった。朝連板橋支部尹徳昆委員長が朝連中総に韓徳銖文化教育局長を訪ねたのは。
尹徳昆委員長は朝連初等学院の運営に人一倍情熱を持ち、国家と民族が繁栄するには、教育をしっかりしなければならないとの持論を持っていた。
彼は校舎として使える建物が無いか探しまわり、板橋区役所に「校舎を斡旋してほしい」と何度も要請を繰り返した。彼は同胞の生活の問題や帰国問題など、区役所に足しげく訪ねていたので、区長や助役など区役所職員たちと顔なじみになっていた。
そんなある日、区役所の職員から朗報が舞い込んできた。以前日本軍の兵器廠として使われていた土地があるという話であった。それを聞くや否や、尹委員長は区長との度重なる交渉を行った。その土地は大蔵省の管轄下にあったが、日本の敗戦後東京都に移管され東京都が管理を所在地の板橋区に任せた状態であった。板橋区は土地の使用許諾についても委任を受けていた。そして交渉の結果、朝鮮中学校の敷地に使うことが出来るようになったのである。
校地、校舎の問題が解決せず頭を痛めていた韓徳銖文化教育局長は尹徳昆委員長から板橋区長との交渉経過を聞き、あまりの嬉しさに尹委員長の手をかたく握った。どれだけ有難いことだったか。
韓徳銖文化教育局長と何人かの文教局のメンバーが尹徳昆委員長に連れられ現地に向かった。朝連板橋支部の人々や青年同盟の若者たちが門の前で待っていた。その場所は省線電車十条駅の近くで上十条(現在の学校の場所)にあった。入口の大きな門が雨風で灰色に変色していた。
門を開き中に入った人々は期待とはあまりにかけ離れた光景に茫然とした。敷地は予想以上に広く樹木と雑草が茂った荒れ地であった。苔むした木造の火薬貯蔵庫の建物が数棟立っていた。所どころに深い水溜まりがあり敷地の奥には大きな山があった。
人々はあまりにもひどい現場の様子に落胆し言葉も無かった。
しかし、時間が無かった。ここより良い敷地を探せる見込みも無かった。少し手を加えれば何とか教室として使える建物が数棟あり、ここに決めざるを得なかった。 「これらを全部使ってもいいのだろうか?」
背丈を超える雑草をかき分け敷地内を回り終えた韓徳銖文教局長が尋ねた。彼の心には山が削られ、立派な校舎が建ち、広い運動場でスポーツに汗を流す生徒たちの元気な姿が浮かんでいた。
「必要な広さだけ使ってよいとのことです。」尹委員長が答えた。
「敷地が広いことが気に入った。立地条件もいいし…これからいくらでも良くすることが出来るじゃないか!」
人々のやるせない気持ちを奮い立たせるような文教局長の大きな声だった。
現地踏査後、尹委員長は板橋区牛田正憲区長や助役たちと度重なる交渉をした。
尹委員長は彼らに日本の植民地下で朝鮮人を「徴兵」、「徴用」し炭鉱や軍需工場などで牛馬のように過酷な労働を強いたこと、「皇民化教育」や「創氏改名」を強要し、我々の言葉や文字、名前まで奪った世界に類例がない日本帝国主義の悪行を断罪した。
尹委員長は、奪われた民族の言葉や文字を取り戻し、新しい朝鮮を建設する人材を育てるためには必ず中学校を必要とすること、朝鮮人に与えた罪を償うためにも無償で旧兵器廠の敷地を使用できるようにすべきだと強く要求した。
板橋区長は関東財務局に旧兵器廠跡を朝鮮中学の敷地として使用できるように要請した。関東財務局王子出張所は尹委員長が提出した「雑種財産一時使用認可申請」を1946年9月20日受理し、「建物使用許可」を承認した。
このとき、土地使用料の契約は校舎の建設が開始された後に正式にすることになっていたが、「都立に移管」されるまでの間と「都立時代」は、土地を無償で使用した。「都立」の看板をおろし東京朝鮮中高級学校として再出発した1955年4月、東京朝鮮学園は関東財務局東京財務事務所と賃貸契約を結んだ。土地の使用料は1年間で139万1千円であった。

生徒

生徒募集および入学試験

生徒募集は9月中旬から開始された。まだ校舎の準備もできず机、イス、黒板など教具も揃っていない状況で学校を始めることが出来るのかと心配する人たちもいたが、これ以上遅らせることは出来なかった。
東京本部や朝連中総には「いつ中学校が出来るのか?」と同胞たちの催促が相次ぐ中、朝連文教局は祖国の新学年度開始に合わせ9月中に開校するための準備を進めた。生徒募集要項と入学願書をつくり、朝連の各本部と都内の支部、初等学院に送付した。
募集締め切りまでわずか10日間しかなかったが、入学試験当日までに300人以上の生徒が願書を提出した。入学試験は、朝連中総(新橋にあった旧「朝鮮総督府」東京出張所)文教局の事務室で実施された。朝連初等学院の生徒たちが教員に引率され集まって来た。女子生徒の中にはチマ・チョゴリ姿の生徒もいた。東京だけでなく栃木、茨城など遠方から来た生徒もいた。
試験といっても筆記試験はなく、面接試験だけであった。試験官は文教局の中学校開校準備をしていた若い職員たちだった。
面接後、朝連中総文教局の職員が受験生たちをビルの屋上に連れて行き中学校開校の準備状況を説明した。朝鮮語を聞き取れない受験生が多いので日本語で話をした。文教局の職員は「池袋近くの十条にある兵器廠跡で、今は雑草に覆われ廃墟のような所に朝鮮中学校を作る」ことや「学校建設のための資金や用具は足りないがこれ以上遅らせることが出来ないので10月5日に開校式をする」ことを話した。
職員の話を聞いた受験生たちは「そこがどんなにひどい所であろうとも私たちの中学校が出来るのは嬉しい」と喜びを熱く語り、希望に胸をふくらませた。
この入学試験では中学の年齢に達していない生徒を除いて全員合格となった。その後開校式の前日までに入学を許可された生徒もおり、それらを合わせると入学希望者数は340名になった。そのうち女子生徒は140名であった。このようにして「在日朝鮮人中等教育の始まり」となる東京朝鮮中学校の開校準備は進んでいった。

開校

朝鮮中学校の開校(在日朝鮮人中等教育の開始)

1946年10月5日。
前日まで降っていた雨がやみ澄んだ秋空が広がった。朝早くから同胞たちと新入生たちは東京十条に向かっていた。何人かの女子生徒は祝祭日に着るようなチマ・チョゴリ姿で集まって来た。入学試験のときはあのように喜んでいた生徒たちだったが、一方で校内は荒れた兵器廠跡のままであり、期待が大きかっただけに失望したような気配も見られた。朝鮮中学校が開校されたとのうわさを聞いた同胞たちもこぞってやって来た。いつの間にかその数は500人をはるかに超えた。
七千坪の学校の敷地には雑草が繁り日本軍が使っていた壊れた武器が散在していた。敷地の横にある米軍の実弾射撃場(現在運動場横のアパートが建つ場所)で機関銃を撃つ音が間断なく人々の鼓膜を打った。しかし同胞たちと生徒たちはそれも目に入らないかのように喜びに満ちていた。

午前11時
歴史的な開校行事、入学式が開始され「解放の歌」が鳴り響いた。

解放の歌
해방의 노래

1.
朝鮮の大衆よ聞いてみよ
조선의 대중들아 들어보아라
強く鳴り響く解放の日を
우렁차헤 들려오늘는 해방의 날을
示威者が鳴らす足音と
시위자가 울리는 발굽소리와
未来を告げる叫び声
미래를 고하는 아우성소리

2.
労働者と農民が力尽きるまで
로동자와 논민들은 힘을 다하야
敵に奪われた土地と工場
놈들에게 빼앗겼든 토지와 공장
正義の手で取り戻せ
정의의 손으로 탈환하여라
奴らの力など恐れることはない
지놈들의 힘이야 그 무엇이냐

尹槿校長が挨拶をした後11人の教員、林光徹(歴史)、崔泰鎮(体育)、金斗昌(国語)、柳根悳(社会)、朴燦根(美術)、李殷直(国語)、任燦準(理科)、李興烈(社会)、宋正鉉(英語)、朴俊栄(数学)、金昌徳(美術)が紹介された。
実は開校式の前日まで校長は決まっていなかったが、当日の朝に朝連中総の尹槿委員長(当時49歳)が臨時校長を兼務することとなった。そして李興烈氏(当時35歳)が事務主任、朝連中総文教局の職員であった林光徹氏(当時30歳)が教務主任として発表された。
解放直後結成された朝連の初代委員長が東京朝鮮中学校の校長を兼任したことは、朝鮮中学校の創立が在日朝鮮人運動や在日民族教育にとって如何に重要なことであったかを端的に示すものである。尹槿校長は朝連中総委員長だけでなく、東京朝鮮中学校が開校した2週間後の10月20日には朝鮮奨学会の理事長も兼任した。この解放直後の状況下で朝連の活動は多忙を極め、尹槿校長が学校にいることはほとんど無かった。
尹槿校長は植民地時代、ソ連の沿海州新韓村で新聞記者として、朝鮮では教員と中央基督教青年会幹事として活動いた。1930年代に日本に渡ると東京朝鮮基督教青年会総務を務め、日本大学高等師範部で学んだ経歴を持つキリスト教信者でもあった。

開校式では新入生329名の名前がよばれ、荒川初等学院出身の新入生が次のように決意を述べた。
「初等学院で朝鮮の文字と言葉を習いました。毎日『朝鮮人、朝鮮人』と蔑まれた日本の学校とは違い、朝鮮の友達と一緒に勉強が出来て嬉しく思います。東京朝鮮中学校初の新入生として朝鮮の言葉、歴史と文化を学び立派な朝鮮人となり、祖国建設の担い手になれるように一生懸命勉強します。」
新入生の挨拶に続き朝連板橋支部尹徳昆委員長が挨拶し「東京朝鮮中学校の創立は民族史に残る歴史的な日であります。在日同胞が力を合わせ東京朝鮮中学校を運営して行きましょう。」と訴えた。
開校式が終わると同胞、教員、朝連の活動家たちも喜びを抑え切れずに「もう大丈夫だ」、「我々の願いがかなった。」と互いに手を取り合った。開校式の準備をしてきた担当者たちは感激と喜びに満ち、彼らの目からは熱い涙がこぼれ落ちた。
11月5日には父兄会を立ち上げた。初代会長には自分の息子を東京朝鮮中学校に入学させた板橋支部尹徳昆委員長が推薦された。また、11日には建設期成会が解散し学校運営委員会として再出発し孫芳鉉氏がそのまま運営委員長となった。
通学定期券は十条駅と交渉して、開校式の日から購入することができるようにしていたが、10月7日に東京鉄道局に提出した定期券発行申請書は翌月25日に承認された。 さらに11月8日には各種学校として東京都知事から認可された。
1946年11月2日付で東京朝鮮中学校建設期成会が東京都に送った「東京朝鮮中学校設立申請書」には、設立趣意を次のように記した。
「教育が人類発展向上に如何に重大かは今さら論ずるまでもなく『歴史はたゆみなく発展する』という鉄則に従って、我が朝鮮も今日、解放国民として輝かしい独立が約束されている。現在母国語を知らない在日同胞たちに国語を教え、朝鮮文化を再建するために全国で初等学院を数多く設立したにもかかわらず、初等教育以上の教育を与える適当な中等教育機関がまったくない状況である。当面の緊急課題である中等教育機関の設置こそが私たちにとって火急の問題である。ここに多くの同胞有志の積極的な援助と鞭撻により、さる10月5日に在留朝鮮同胞子女の教育機関として東京朝鮮中学校を設立した。」

開校直後

開校直後の状況

東京朝鮮中学校は創立された。
しかし学校とは名ばかりであり、黒板も机もイスもまともに無かった。雨が降れば天井から雨漏りがした。天気がよければ校内の草むらで勉強し、天気が悪ければ教室のコンクリートの床の上で勉強した。
この時の状況を卒業生たちは当時を回想して次のように語った。
「教室はもともと弾薬倉庫だったところですが、一部がくずれて穴があき雨が降れば雨水が漏れ、天気が良くても風が吹くとほこりが飛んで来ました。窓枠はありましたが窓が無かったのです。しかし.そんなことは大きな問題ではありませんでした。机も教科書も粗末なものでしたがみんなが朝鮮の子供たちで先生も朝鮮の教師でしたし…。勉強も朝鮮の勉強じゃないですか!学校が面白くて楽しかった!東京朝鮮中学校は私たち朝鮮学生の真の学び舎でした。」
授業は午前のみであり生徒たちは時間を惜しみながら勉強に励み、放課後は運動場作りや学校の整備などに汗を流した。
この時期国語、歴史、地理の教科書は朝連文教局で編纂したものを使い日本語、英語、数学、理科などは日本の教科書を使用した。
開校式から数日が過ぎて新しい黒板が、その2,3日後には机とイスが教室に運び込まれた。そのたびに、生徒たちは歓声を上げた。彼らはまるで土木工事労働者のように学校を整備するために働いた。日曜日にも生徒たちは学校に来て草を刈り、木の根を掘りおこした。運動場にある山を切り崩しその土で水溜まりを埋めた。生徒たちは自分の手で学校を建設するという喜びにあふれていた。
本校第1期卒業生はその時のことを回想し次のように話した。
「日本の学校に通っていた時祖国解放を迎えた。荒川で初等学院に通い1946年10月5日に16才で入学した。運動場にはトロッコの線路があり樹木は無造作に茂り、窓のない教室が印象に強く残っている。運動場を整備するため友人と一生懸命労働したことは今でも忘れられない。」
「私の記憶に残る当時の印象は、心おきなく通うことができる自分たちの学校ができた感激とみんながよく泣いたことです。先生もよく泣いたし、私たちも泣きました。」
ある教員は朝鮮地図を黒板に描いて泣き、玄界灘を渡って故郷を離れた話をしながら涙を流した。生徒たちは金日成将軍が率いた抗日遊撃隊の話に感激して涙を流し、李舜臣将軍や沈清伝の話を聞いても涙を流した。

第二次入学志望者

第二次入学志望者募集

1946年11月20日、日本を占領した連合国総司令部(GHQ)は「帰国を拒絶し日本に残ることを選択した朝鮮人は、日本の法律に服従する」ことを強要する「朝鮮人の地位および取扱いに関する総司令部発表」を公布した。この「11.20命令」は日本の法令に従う義務のみを強制するもので、また国際法で保証される外国人の地位と権利を否定する不当なものだった。日本当局は、この「11.20命令」を根拠に朝鮮学校閉鎖への動きを活発化し始めた。
このような時期に北朝鮮臨時人民委員会金日成委員長は公開書簡「在日100万同胞に」(1946.12.13)を発表し、在日朝鮮人運動が進むべき道を示した。朝連は公開書簡の内容に沿って1947年1月第9次中央委員会を招集し、長期的になる在日同胞たちの日本滞在を前提に民族教育の方向とそれを実現するための対策を提示した。
「11.20命令」が出された混乱の中でも、毎日のように入学志望者が学校を訪れていた。
学校では1947年1月に二回目の入学試験を実施し、当時70人の生徒が入学した。日本の中学校を1年以上通った生徒と日本の高等小学校(小学校を卒業して2年間通う学校)を卒業した生徒、そして学力が高い生徒たちで2年生1学級を、残りの生徒たちで1年生6学級を編成した。

1947年

1947年度の開始

1947年5月5日300人の新入生を迎え、生徒数は700人に達した。教員数も20人に増えた。学校としての形が出来はじめ学校運営が正常軌道に乗り始めたように見えた。
しかし朝連の委員長、朝鮮奨学会理事長を兼任していた尹槿校長はいつも学校にいなかった。朝連が学校を運営しているにも関わらず、教員たちの中には朝連の指導を拒否し、朝連の方針を公然と誹謗する教員もいた。朝連指導の下で組織された在日朝鮮人教育同盟(1947.8.28結成)に加入することを拒否する教員もいた。学校運営の点においても運営委員会と父兄会との軋轢が生じていた。
このような事態を重く見た朝連中総は事態を収拾すべく対策を講じなければならなかった。
尹槿校長は辞任し、1947年11月20日韓秉柱氏(44 歳)
が専任の校長に就任した。韓秉柱校長は解放直後に組織された朝鮮人商工会で総務部長を務め、校長就任時には朝鮮奨学会常任理事を務めていた。
朝連の組織は日々強化され民族教育も急速に成長していた。1947年の後半には東京都内の22の朝連の初等学院が自主的に統合を行い、6年制の小学校に移行した。

学校徽章と校歌

学校徽章と校歌

東京朝鮮中学校が創立され、1年も経たない1947年春には学校の徽章が創案され校歌も作られた。草創期の学校の徽章は虎が檻を破り外に出て行こうとする姿を徽章図案とした。この徽章は植民地のくびきから解放された朝鮮人民たちが、祖国建設に立ち上がる決意を朝鮮の象徴でもあった虎が檻を破る姿で表現されたものであった。しかし「虎が檻を破るのではなく檻の中に虎が閉じ込められているように見える」、「学校の徽章は単純で格好のよいものに」などの意見が出された。学校ではこれらの意見を受け1948年の初め、学校徽章の図案を全教員と学生から公募した。
現在「三ペン」といわれる徽章の原図案を創案したのは、東京朝鮮中学校1期生、当時16歳だった朴文侠である。
朴文侠は同じ下宿に住んでいた東京朝鮮中学校の美術の教員であった朴周烈を訪ね、徽章を考案するため何度も意見交換をしたという。
朴文侠は新潟でハングル学院に通っていたが東京に朝鮮中学校が出来るという話を聞き上京し東京朝鮮中学校の門をくぐった。一方、朴周烈はその時20歳、多摩造形専門学校(多摩造形専門;現多摩美大)に在学しながら東京朝鮮中学校で美術を教えていた。
朴文侠と朴周烈教員は1948年春、学校の徽章制定委員会に「三ペン」と呼ばれる徽章図案を提出した。
学校の徽章制定委員会は朴文侠が提出した図案をもとに、形をすっきりとした正三角形に、ペン先とハンマーの大きさと比率を定め東京朝鮮中学校の徽章とした。この時学校の徽章を最終的に修正、完成したのは当時製図の教科を担当していた金鐘淳教員であった。
この徽章の特徴である「三つのペン先とハンマー」、「正三角形」の「三」には、祖国を慕う気持ちをこめた「三千里錦繍江山」の「三」と、当時朝鮮の人口数を示した「三千万朝鮮民族」の「三」を図案で表現した。また徽章の「ペン先」には祖国のために学ぶ決意を、「ハンマー」には新しい祖国を建設する人材になる決意が表現されている。
ちなみに現在の初級部の徽章は、1948年在日教職員同盟が懸賞募集した応募作品中一等賞に輝いた徽章図案である。

東京朝鮮中学校の草創期には校歌が創られていた。草創期の校歌には祖国解放の喜びと祖国を建設してゆく青雲の志と勉学に励む朝鮮学生の使命が歌詞にこめられている。
作詞はその後校長になった林光徹、作曲は金永煥副校長である。

도꾜조선중학교교가(초창기)
東京朝鮮中学校校歌 (草創期)

1.
동편하늘 밝는다 일어나서자
東の空が明ける みな立ち上がろう
새 나라 새 일터에 할 일이 많어
新しい国と職場ですべき事は多い
젊으니가 모였다 피가 끓는다
若者が集まり血がたぎる
동경조선중학교 우리 동무들
東京朝鮮中学校 わが友よ

2.
동산속에서 울리는 맑은 종소리
裏山で響く澄んだ鐘の音
뭇 사람 같이 걸어 옳은 길 걸어
人々が手をつなぎ歩む正しい道
온 누리의 진리를 캐고 말란다
世の中の真理を掘り起こそう
동경조선중학교 우리 동무들
東京朝鮮中学校 わが友よ

現在の校歌は1952年に創られた。
作詞は当時(都立時代)校長であった林光徹、作曲は1950年から音楽教員であった崔東玉である。(崔東玉教員は「祖国の愛は温かい」、「我が誇り限りなし」など数百曲を作曲し共和国「人民芸術家」称号が授与された)
校歌には1948年に創建された朝鮮民主主義人民共和国へのあこがれと誇り、祖国を仰ぎ学ぶ気持ちが込められている。(校歌の始め二節は「共和国宣布の歌」の歌詞と非常に似ている)
林光徹校長は祖国解放10周年慶祝在日朝鮮人代表団の団長として、祖国に帰った。香港、広州、北京を経由して祖国に到着した代表団を歓迎する群衆大会がピョンヤン牡丹峰劇場で開かれた。
金日成首相(当時)は1955年9月29日林光徹校長を接見された際、総連の愛国運動を進める上で指針となる原則的問題について教示された。また、民族教育をさらに発展させるために教育援助費と奨学金、教科書も送るとし、祖国への進学を希望する学生を温かく迎えると述べられた。

4.24教育闘争

学校閉鎖令と「4.24教育闘争」

1948年1月24日米進駐軍の命令を受けた日本政府は文部省学校教育局名義で文部省大阪出張所および日本全国の都道府県知事に「朝鮮人学校の取扱いについて」を通達した。
「1.24通達」は、在日朝鮮人の民族教育を否定し、同化教育を強制する「朝鮮学校閉鎖令」であった。
4月15日東京の京橋公会堂では「朝鮮人教育不法弾圧反対父兄大会」が行われた。この大会で許南麒氏は自分が書いた詩「これが私たちの学校だ」を朗読した。この朗読は参加者に大きな感動を与えた。
4月20日東京教育本部長名義の学校閉鎖令が朝連東京文化部あてに通告され、21日には北区教育課が東京朝鮮中学校閉鎖のための調査を開始した。東京朝鮮中学校の教員と生徒たちは北区教育課職員たちの調査に反対し、学校閉鎖を絶対に容認しないという強い決意を示した。
兵庫県では、1948年4月24日同胞たちが兵庫県庁前で1万の群衆集会を行い県知事との交渉で学校閉鎖を撤回させた。しかしその日の夜遅く、進駐軍第8軍司令官のアイゲルバーガーは、合意した「学校閉鎖令」撤回の無効を宣言しただけでなく、神戸に「非常事態宣言」を発動し、3日の間に1937人の同胞を無差別に逮捕した。逮捕された朴柱範朝連兵庫県委員長は1年以上拘留され獄死した。「緊急事態宣言」は、日本で執行された唯一のものである。
大阪では4月26日府庁前で「学校閉鎖令」撤回を要求する3万人の集会が行われた。この時日本の警察は銃を乱射し15歳であった金太一少年を銃殺する蛮行におよんだ。 警視庁は兵庫と大阪で展開された同胞たちの闘争に慌てた。そして27日午前5時「学校閉鎖令違反」で東京朝鮮中学校韓秉柱校長および学校運営委員会尹徳昆委員と金昌日(第1)、金如斗(第2)、李寅宰(第3)、康洪金(第4)、崔学栄(第5)、李奉公(第6)、尹明重(第7)、崔真(杉並)、李日東(第8)、崔正鎮(中野)、許夢鶴(文京)、李元善(向島)、金台鎮(港)の東京都内16人の校長を一斉に検挙し警視庁に拘禁した。
このように全国的規模で延べ100万3千人が参加した「4.24教育闘争」により日本政府を非難する声が高まった。途方に暮れた日本政府はこの事態を解決するため、5月5日森戸辰男文部大臣と朝鮮人教育対策委員会責任者、朝連中央本部文教部長の三者連名の覚書に署名せざるを得なかった。文部省は5月6日文部省学校教育局長名義で都道府県知事あてに「朝鮮人学校に関する問題について」通達を送付した。
文部省は「5.5覚書」と「5.6通達」で朝鮮人学校は私立学校として、自主性が認められる範囲で選択科目や課外時間に朝鮮語と朝鮮史、文学、文化などの「朝鮮人独自の教育を行うことができる」ことを明記せざるをえなかった。しかし同時に「日本の教育基本法を順守すること」なども書き添えられた。

5月7日、「5.5覚書」の合意に基づいて東京朝鮮中学校管理組合が東京都知事に申請した「私立東京朝鮮中学校設置認可」は5月13日付で承認された。
認可申請書には朝鮮人の中学校の設置目的を「日本に在住する朝鮮人子弟に科学的な世界観に立った民主主義的愛国心を涵養し、朝鮮国民としての必要な中等教育を行なうことを目的とする」と記した。

高等部の併設

中学校第1回卒業式高等部の併設

1948年度中学校新入生は422人、学級数は7学級になり、全校生徒数は880人になった。
1948年6月上旬東京朝鮮中学校管理組合(理事:尹徳昆、韓徳銖、李興烈など13人)は中学校1期生の卒業を前に高等学校の併設を決議し、6月10日東京都知事に東京朝鮮高校の設置認可申請書を提出した。この申請書は6月2日付で受理された。
1948年9月9日、祖国朝鮮民主主義人民共和国の建国が高らかに宣言され、金日成将軍が国家首班に推戴された。共和国創建の感激と興奮の中、10月4日東京朝鮮中学校の第1回卒業式は共和国国旗が大きく掲げられた校内の「講堂」で行われた。
卒業式には韓徳銖(朝連文教部長)、金天海(朝連顧問)、尹徳昆(朝鮮中学校教育会会長)、李珍圭(教職員同盟委員長)、李殷直(朝連東京文教部長)などの来賓と韓秉柱校長、南日龍、宋枝学、金鐘淳など全教員が参加した。卒業式には卒業生52名、在校生代表の2年生250人が参加した。(講堂は300人しか入ることができなかった。)
この日は天気が悪く、天井の一部が降った雨に濡れていたが、卒業式場は中学校初の卒業生を祝う熱気に包まれていた。
卒業式で韓徳銖文教部長は次のように挨拶をした。
「今日行われている卒業式は非常に意義深いものです。それは共和国の旗を高く掲げ行われている卒業式であるためです。共和国旗を高く掲げ行う卒業式は、ここ日本だけでなく、共和国でもまだありません。共和国旗を高く掲げ行う初めての卒業式が東京朝鮮中学校の卒業式です。
きみたちが共和国旗を掲げ卒業式を行った意味を深く心に刻み祖国の繁栄のため勇気を持って戦うことを願っています。卒業生たちは東京朝鮮中学校を卒業する第1期生です。今日のこの栄光が卒業生たちの前途に大きな意義をもたらしてくれると確信します。」
卒業生たちは共和国公民として祖国建設に貢献することを強く誓った。
中等部と高等部の入学式は10月4日、中学校卒業式後その場で行われた。高等部が併設された歴史的な入学式であった。
第一回卒業式があった翌日の10月5日、学校創立2周年を記念して運動会が行われた。運動会は創建され間もない共和国旗を運動場に掲げて行った歴史的な運動会であった。
「学校閉鎖」などの弾圧が相次いだ非常に困難な時期に混乱を収拾し、学校の新しい発展の道を開いた韓秉柱校長は1949年1月辞任した。新しい校長には金民化氏(当時:朝連中総副委員長、総聯結成時議長団)が就任した。
東京朝鮮高校が創立されたことによって、在日同胞の民族教育は小学校から高等学校までの一貫した教育体系を完成させるに至った。
朝鮮高等学校が設立されたニュースを聞き、日本各地から向学心に燃えた若者たちが大きな希望を胸に抱き東京朝鮮高校に集まって来た。中には日本の中学校を卒業、または日本の高等学校、大学まで途中で打ち切り駆けつけた生徒もいた。次の年の入学式は、6ヶ月後の1949年4月に行われ、高等部2期生は115人、中等部5期生は365人が入学した。

1949年4月には生徒数が千人を超えた。

運動会

運動会 1948.10.5

東京朝鮮中学校の第1回卒業式、また高等部が併設された1948年10月4日の翌日、10月5日に朝鮮民主主義人民共和国の創建と本校創立2周年を祝う運動会が行われた。

運動会1948.10.5

ひと月前に創建された共和国の国旗を青い秋空になびかせ、運動会は始まった。多くの同胞たちが初めて見る国旗であった。
運動会では「金日成将軍の歌」が歌われた。1946年に作られた「金日成将軍の歌」は朝鮮のラジオ放送から採譜し1947年ころから教員、生徒たちが歌うようになっていた。
1948年12月23日、金日成首相は小舟で東海の荒波を乗り越えピョンヤンに来た「共和国創建在日朝鮮人祝賀団」を接見し、在日朝鮮人運動と民族教育があゆむべき道を示された。
金日成首相は「在日朝鮮児童たちに朝鮮民族の魂と熱烈に祖国を愛する気持ちをはぐくまなければなりません。彼らに朝鮮の言葉と文字を教え、朝鮮民族としての誇りと自負心を持って自主独立国家の将来を担っていけるように育てなければいけません。そのためには在日朝鮮同胞たちが民族教育をさらに発展させなければなりません。」と語った。
金日成首相の教えに基づき、本校では1949学年度から朝鮮の教育政策に依拠した「在日本朝鮮人各級学校規定」が朝聯の指導により実施された。
1949年3月25日、金日成首相の肖像画を掲げ中等部第2回卒業式が行われ、4月の新学期からは全教室に肖像画が掲げられた。
民族教育は飛躍的に発展した。民族的主体を確立すべき教育が一層強化され学校の姿も見違えるようになった。
しかし、依然として多くの苦難が立ちはだかっていた。何よりも正規の学校としてはあらゆるものが粗末であった。理科の実験室も、体育の授業に必要な機材も無かった。教科書が準備出来ないまま授業を行っている科目もあった。
それだけでなく教員たちは多くもない月給が遅れ、その生活も困窮を余儀なくされていた。

中等部第二回卒業式(1949年3月25日)

このような状況下で1949学年度、新学期を前に新たな問題が持ち上がる。中学3年の卒業生250人中、過半数近い生徒たちが日本の高校に進学することを希望し、高等部に進学の意思を表したのは50人程度にしか満たなかったのである。
これは朝鮮学校に対する誹謗中傷だけでなく、教育の水準が高くないこと、教育施設などが貧弱なことも要因であった。
朝聯は教員の再配置を行い教育水準の引き上げを試み、校舎の増改築を学父母や同胞たち、生徒たちで力を合わせ行った。このような努力の結果、中学校の新入生は365人、高等部には115人が入学し、新しく増築された教室で授業を受けることが出来た。1949学年度生徒数は中等部963人、高等部(高1,2学年)176人で全校生数は1139人となった。
このように教員陣営も強化され、生徒の数も増えていたが、朝鮮学校を取り巻く状況は厳しさを増していた。1949年9月8日、日本政府は連合国総司令部(GHQ)との協議に基づき民族教育の推進母体である朝聯を「団体等規制令」で強制解散させた。
朝聯の強制解散5カ月前、1949年4月18日に開催された「4.24教育闘争1周年記念中央大会」では日本政府が朝鮮人学校への教育費支給を法文化し教育費の全額支給を保障すべきとの決議がなされた。大会の決議は衆議院に「朝鮮人学校教育費国庫負担の請願」として提出され5月25日衆議院本会議で「在日朝鮮人子弟に対する教育費支給案」として採択された。しかし民族教育に対するこの画期的な国会決議を内閣は「留保」するとしながら事実上拒絶した。(*この時以来今日までに国庫からの民族教育に対する補助は無い。もし「高校無償化」が朝鮮学校に適用されれば初めて補助金が国庫からの支給されるはずであった。)文部省は6月23日に「朝鮮人学校に対する補助金交付」を拒否する旨を都道府県の知事あてに通達した。(地方自治体の朝鮮学校への教育補助が始まったのは1980年代からである。

「東京都立」

朝鮮学校が「東京都立」に

1949年9月8日、朝鮮での戦争に備えていた米国は共和国を支持する在日同胞たちの運動に危機感を覚え日本政府に朝聯と民主青年同盟を強制解散させた。また朝聯幹部や金民化校長を公職追放させた。さらに現在の評価額で推算すると数千億円に達する在日同胞の財産(建物78棟、土地2万6千余坪、預金207万等)を没収する暴挙を敢行したのである。
10月1日、公職追放された金民化校長の後任として林光澈教務主任が就任した。
日本政府は朝聯強制解散一カ月後の10月19日「学校閉鎖令」を発令し、「11月4日を期しすべての朝鮮学校を閉鎖する。」という民族教育に対する大弾圧をおこなった。「学校閉鎖令」はすべての朝鮮人学校を閉鎖し、生徒たちを日本の学校に編入させ、民族教育を抹殺するものであった。
朝聯が強制解散された状況で朝鮮学校を死守するため同胞たちは多くの困難を余儀なくされた。
東京では、朝鮮学校の教員、生徒、学父母をはじめとする多くの同胞たちが学校と民族教育を守るため一丸となり、闘いに身を投じた。「学校閉鎖令」を撤回させるため、教員たちは高校生と中学3年生たちと共に都庁前でデモを行った。都内朝鮮学校の校長、管理組合長など学校関係者たちは度重なる都教育庁の役人たちと交渉を粘り強く行った。
11月5日には「学校閉鎖令」に反対する大運動会も本校運動場で行われた。

校門

「東京都立」の看板がかかった校門

しかし、指導的地位にいた一部の人たちは「朝聯が解散させられたのにどうしようもないではないか」、「朝聯の路線が駄目だというのなら民団の名前を借りればよい」など、戦いを初めから放棄しようとした。
中でも深刻な問題は民族的自主性を放棄した日本共産党民族対策部の「学校閉鎖令」に対する対処であった。当時、朝聯の活動家の多くが共産党員であった。彼らは「朝鮮学校の経営母体は朝聯なので朝聯が解散された状況では朝鮮学校は閉鎖の道しかない。学校閉鎖になれば子供たちを日本の学校に転校させ、日本の父兄たちと日本の民主化のために共同で戦うべきだ。そして朝鮮の子供が通う学校で特別学級を設け、民族科目を教えるべきだ。」と主張した。在日同胞が多く住む大阪をはじめ多くの地域では朝鮮学校を守れず、生徒たちは日本学校へ転校し、朝鮮学校は日本学校の分校になってしまった。
しかし、兵庫、愛知、岡山では「学校閉鎖令」を受け入れず、学校に籠城するなど徹底的に闘い続け「自主学校」として朝鮮学校を守り通した。これらの学校は法律的には無認可であったため通学定期券が発行されず教員たちの給料もほとんど滞っていた。彼らは真に献身的に教育活動をおこなった。このような苦しい状況の中で子供たちは民族的素養を着実に育んでいった。

都立時代

都立時代の案内看板

東京では最後まで朝鮮学校を守るため粘り強く戦ったが、「学校閉鎖令」に対処する指導機関も無く、学校を守り維持してゆくことが出来なかった。
民族教育が存亡の岐路に立った厳しい時期でありながら、次々立ちはだかる民族教育抹殺政策を打ち破るため、同胞たちの熱い民族心を奮い立たせ大衆闘争を指導する人材と組織が無かった。
東京都は11月18日に「現地調査」を行うなどとしながら「朝鮮学校都立化」の準備を着実に進め、20日には「朝聯学校廃止」を公示、12月17日に「都立朝鮮人学校規則」、12月20日には「朝鮮人学校取扱要綱」を発令した。これは都立という形式で在日朝鮮人が自力で作り上げてきた朝鮮学校の施設をそのまま利用しつつ同化政策を行うというものであり、在日朝鮮人の血と汗の結晶である朝鮮学校の実質的な略奪であった。
このような状況下で「学校閉鎖令」に断固反対してきた朝鮮学校の教師、生徒たちは「もしも、都立学校になっても私たちは民族の言葉と文化を守っていく」と決意を述べている。

戦い

「4原則」に反対する戦い

学校閉鎖令が通告された以降も、東京中高では林光澈校長(朝聯強制解散時に公職追放された金民化校長の後任)を中心として学校を守り授業も行っていた。しかし、学校は12月20日都立に強制移管され、安岡富吉校長以下30人の日本人教師たちが配属された。(当時朝鮮中・高校の校長であった林光澈は都立に移行した後も実質的な校長として活動した。生徒たちは都立の時代も「林光澈校長」と呼んだ)
東京都教育庁は日本の教育法を朝鮮学校に適用すべくいわゆる「4原則」を強要した。
その内容は①教育用語は日本語にすること、②朝鮮語、朝鮮史、朝鮮地理など民族科目は課外授業で行うこと、③学校を現存施設以上に拡張しないこと、④朝鮮人教師たちは正課を担当しないことであった。それだけでは飽きたらず、「朝鮮人は公立学校の教員資格が無い」として学級担任もさせず民族科目だけを課外で教える講師に任命した。これらは民族教育を抹殺し同化教育を行う悪辣な意図をもっていた。
朝鮮人教員たちはこれに屈することなく民族科目を正課のように教え、学級担任も実質的に受け持った。しかし教育の自主権を奪われたことによって極めて制限された民族教育しか実施することが出来なかった。
12月23日、学校管理組合が無くなり日本学校のように「PTA」が組織され、尹徳昆管理組合理事長が「PTA」会長に推された。
1950年4月に新学年度を迎え、都教育庁は再び「4原則」の実施を強要した。しかし、都立になった4カ月の間に日本人教師たちの民族教育に対する意識は大きく変わっていた。
1月10日、職員会議で朝鮮人教員たちは「日本人教師たちが何のために朝鮮学校に赴任したのか、朝鮮人の子供たちに日本人になるような教育をする気なのか」と日本人教師たちを激しく追及した。
生徒たちも学校を奪われまいとその怒りを日本人教師にぶつけた。
その様子が「都立朝鮮人学校の日本人教師」(梶井渉著岩波現代文庫)に次のように描かれている。
「先ず教室に入って新任の挨拶を一席やろうとした。ところがとんでもないことになった『先生!名前を呼んでください』というするどい憎悪に満ちたことばが教室の到るところからとんで来た。…急をつかれた私はあわてて名簿を開いてみたが、そこには今までわたしの見たことのない字が並んでいるだけだった。『わたしはこんな字は読めない。私は日本語で授業を教えろといわれて来た』というと、教室の中はざわめき立ち『私たちは朝鮮人だ。朝鮮語を知らないで、何を私たちに学校で教えるというのだ』『日本は今まで私たちの父や母に自分の国の言葉を教えさせたのか、朝鮮語を使うものは牢屋に投げ込んだではないか』『私たちの学校を何故日本の政府はつぶしたがるか聞かせてくれ』等々矢つぎばやに生徒たちはわめきたてたので、わたしは茫然と立ち往生してしまった。」
また、「ある時前のほうに座っていたセーラー服の女の子が『先生!、私たちは朝鮮人なんです。私たちは日本帝国主義のために言葉も国も奪われたんです。朝鮮人の顔をしていても、朝鮮人の言葉も歴史も知らない不自由な身にされていたんです!先生、先生に日本語を使ってはいかん、日本語を習ってはいかん、といわれて学校をつぶされ牢屋に投げ込まれたら、先生はおこらないでしょうか』と泣き叫んばかりに訴える切々たる言葉を聞いているうちにいつしか自分の立場になっていた。」
このような朝鮮人教員や生徒たちの民族教育を守ろうとする熱い熱意に圧倒された一部の日本人教師たちは学校から出て行き、また一部は日本当局のやり方が植民地時代の同化教育であると悟って民族教育に理解を示し、生徒たちの立場に立つ教師たちも現れた。
教育の自主権を奪われた状況での民族教育は困難を極めた。教育用語は日本語になり日本人教師たちによる授業が行われても、朝鮮人教員たちは使命感に燃え朝鮮語、歴史、地理等の民族科目を教えた。そして何よりも情熱を持って生徒たちを指導した。朝鮮人教員たちは生徒たちから絶大なる支持と信頼を得ていた。

事件

「2.28事件」、「3.7事件」

1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。
東京朝鮮中高等学校の教職員、生徒たちは祖国を守り、統一のために米軍と戦う朝鮮人民軍を心から応援した。
このような緊迫した状況のなかでも教員、生徒たちは在日同胞たちの力を結集するとともに朝鮮学校に対する日本人の支持を得るため街頭に出てビラを配り、日本の高校を訪ね交流を行った。帝京高校、浦和高校など多くの高校とサッカー、バスケットボールの親善試合などを行った。
GHQと日本政府はアメリカの朝鮮侵略を反対する日本の民主勢力や在日同胞たちに対する弾圧を強化し、当時在日朝鮮人の唯一の合法的集合体であった朝鮮学校を完全閉鎖に追い込もうとしていた。
1951年2月28日未明、完全武装した500余名の警察隊と60余名の私服警官が不意に東京朝鮮中高等学校と校内にある寄宿舎を襲撃し、教科書、教材などを押収した。
警察は朝鮮学校の生徒が「アメリカは朝鮮から出ていけ!」という反戦ビラを持っていたという事を口実に「学校に秘密印刷所がある」と強制捜索を行った。学校側はこれに抗議して3月7日、生徒と教員、学父母らによる抗議集会を行った。
王子警察はこの集会が「無許可集会」だとして5,000人の武装警官を動員して学校を包囲、校内に突入した。この日、十条の学校周辺の道路は警察の装甲車や機動隊で蟻一匹這い出る隙間が無いほどであった。
この日、校内での警察隊の暴行により220名の生徒たちが重軽傷を負った。また11名が公務執行妨害などで不当に逮捕された。
この事件について、朝鮮人学校の日本人教師梶井渉は前述の「都立朝鮮人学校の日本人教師」では次のように記した。
「1951年の2月から3月の上旬にかけて私たちを驚愕させ、そして憤激させた最初の大事件がひき起こされた。
2月28日の未明警官と警察予備隊数百名が中・高校とその寮に侵入し、さらにそのほとぼりもさめやらぬ3月7日の白昼、今度は武装警官と警察予備隊約3,000名が学校を包囲してその一部は校内になだれ込み、生徒や教師に暴行を加えて多数の負傷者をだしたのである。
暴行をくわえたとか負傷者を出した、あるいはまたなだれこんだなどと書くと、まず眉唾ものだと考える人も少なくないと思うが、私自身がその被害者の一人だったのだから、はっきりと証言できる。
いったいどうしてこのようなべらぼうな事件が起こったのであろうか。このことについて、朝教組が3月6日と8日の2回にわたって出したアッピールは次のように書いている。

『皆さん!
去る2月28日午前6時半、突如朝鮮人高等学校に武装せる警察予備隊520名、私服刑事60名が押しよせ、教室のガラス窓を破損し、土足で寮内に侵入し個人的な職員の引き出しをかき乱し、一部の警官は酒気を帯び、女子寮においては女子学生をからかうなど、全く学園の神聖をけがすよな行為をしました。
彼らの口実は一高校生を、彼等が或る場所で拾ったという反戦ビラの所持者だとこじつけ、個人的家宅捜査のためにこの大部隊を動員したというのですが、吾々にはこのような個人的ことがらをその筋の長である教育庁並びに校長に一言の断りも無く、あたかも泥棒の如く子供たちの寝込みを襲い、生徒の教科書、宿題、答案、教材、作品、エンマ帳まで持ち去るごとき不法ぶりには憤激せざるを得ません…』

また、「3.7事件」については
『皆さん!
3月7日の夕刊及び8日の朝刊をにぎわした都立朝鮮人中・高等学校への武装警官隊乱入は、各新聞とも警察当局の態度があまりにも正当かの如く書きたてられていますが、私たちは、この目でこの体ではっきり警察の不当性を体験しました。
3月7日、朝鮮人中・高等学校では、去る2月28日の事件について父兄の不安を解くためにPTA総会が開かれました。
ところが9時半ごろから500人余りの警官が父兄達の入場を妨害し始めました。それに憤慨した父兄との間に小ぜりあいが起こり、父兄の中から若干の検束者、負傷者を出すに至りました。それまで授業をうけていた生徒たちはPTA総会を無事終わらせるため校内で警官に抗議しました。この間に警官隊は続々と増しつつありました。父兄会は無事に終了し、父兄達は引き上げてしまったので、事態収拾のため職員会議が開かれ、あらゆる困難を排除して授業を行う事を決めた時、突然警官隊3千名はピストルが1挺なくなったからそれを捜査するという口実の下に校内になだれ込み、生徒に殴るけるの大暴行を加え、授業に誘導しようとした教師にまでも、[教師が何だ、問答無用だ][朝鮮人なんか皆殺しだ]とどなりつけ、背後からこん棒で殴りつけ[帰れ、帰れ!]とどなりつけながら泣き叫ぶ生徒を学校から完全に追い出しました。それだけでなく、負傷者収容にかけつけた自由病院の医師までもなぐりつけられ重傷を負い、その実情を写そうとしてかけつけた日本ニュースのカメラマンは、撮影中にカメラをこわされ、半身不随になる程なぐられました。…』

私自身も生徒を教室に入れようと職員室から校庭に出たところを、ちょうど正門を突破してなだれ込んできたばかりの警官隊の渦の中に巻き込まれこん棒でこずかれ殴られながら校門の外に放りだされた。そして校門から十条駅の側をとおる大通りに出るまでの約100メートルの道を、両側をビッシリ埋めて並ぶ警官たちの冷笑と蛇のような視線を受けながら歩いた。
日本のニュースカメラマンが警官になぐり倒されて血みどろになった写真が翌日の『サン写真ニュース』一面に掲載されたけれども、たちまち発売を禁止されてしまった。」
「2.28事件」、「3.7事件」について国会法務委員会で行われた質疑応答を参考として以下に抜粋を掲載する。

第10回国会法務委員会
(委員長安部俊吾1951.3.20)


○押谷委員衆院議員(自民党)
過般の十條の朝鮮人騒動につきまして、その騒乱の実情、特におもなる動機、原因あるいは騒乱の計画性、それから騒乱事件の性格等につきましてひとつお伺いをいたしたいと存ずるものであります。

○田中参考人(警視総監)
これは朝鮮人中高等学校としては都内唯一の学校でございまして、これは終戰後在日朝鮮学校管理組合の設立にかかるものであります。なお校内の宿舎は三棟ありまして、その收容されている定員は、大体九十名程度であろうと考えております。
この学校は現在都教育庁の監督のもとにその運営を続けておるのでありまするが、本校の教育方針といたしましては、相当熾烈な政治闘争意識を学校生徒に植えつけているのであります。特に昨年の三月二十日に行われました上野の台東会館の接收の際、その他各種の政治闘争にこれらの高等学校の生徒等が常に参画をいたしまして、実力行使のいわゆる行動隊として、相当第一線において活躍をしておるのであります。さらに最近におきましては、「新朝鮮」あるいは「前進」、「朝鮮女性」等のいわゆる反占領軍的な印刷物を同校において印刷されておるというような容疑も濃くなつて参つて、本庁といたしましてはその視察内偵中であつたのでありますが、たまたま二月二十三日、蒲田署のある巡査が蒲田駅構内におきまして挙動不審の男を発見いたしましたので、この男に対して職務質問を実施いたしましたところが、ただちに国電の中に逃走いたしたのであります。この巡査はただちに国電の中に同時に入りまして、その挙動不審の男に対して職務質問を実施いたしました際に、その男が電車の窓から持つておるふろしき包みを窓外にほうり出したのであります。
該容疑者をただちに引致いたしまして、蒲田署においていろいろ取調べいたしましたところが、本人は朝鮮人学校に寄宿をしておる学生であるということが判明いたしたのであります。これらの印刷物は御承知のように政令三百二十五号違反に該当する物件でありまして、この男の陳述によりまして、朝鮮人学校内にこうした不穏な印刷物がなお多数存在しておるという事実を突きとめまして、ただちに捜索押収令状をとりまして、これを二月の二十八日に執行いたしまして、同校の寄宿舎、職員室、教室、その他について一斉捜査を実施いたしまして、多数の不穏印刷物を押収いたしたのであります。
そこでこの一斉捜査を実施いたした翌日は、いわゆる三・一記念日に該当しておりまして、かねてからこの記念日におきまして、相当激甚なる闘争があるということも一応予定されておつたのでありますが、本一斉捜査がありました翌日は、王子警察署に約三百名の生徒が、きのうのあだ討ちだというようなことで押しかけまして、また板橋署、赤羽署にもそれぞれ相当の者がデモをかけて押しかけて参つたのであります。
また中にはそのときの行動が不当であつたというようなことで抗議をいたしたのであります。その後同校内におきましては、PTA幹部並びに学校職員を中心に連日門をかたくとざしまして、秘密会を開きまして、今後の善後策を十分に協議いたしまして、きわめて不気味な空気が漂つておつたのであります。
また同日の午前八時ごろ王子警察署付近道路上におきまして、朝鮮人学校生徒がビラを散布いたしまして、午前十時ころから王子朝鮮学校において大会を開くから多数集まれというようなビラを各所に散布いたしたのであります。そこで九時三十分ごろになりますと深川枝川町、世田谷四丁目の各部落、荒川駅等に朝鮮人が相当集結いたしまして、本大会に参加するけはいがきわめて濃厚に見られたのであります。かかる情勢のもとに九時三十分ごろには三々五々朝鮮人学校の正門付近に集まつて参りますので、警察署の措置といたしましては、PTAの連合会長尹徳昆に対しまして無届け集会を中止するように、警察といたしましては警告を発したのであります。
しかるにこの警告にかかわりませず、十時三十分ころには約三百名の者が校門付近に三々五々集まつて参りまして、当日在校の朝鮮人生徒一千名と合流いたしまして、相当気勢をあげておつたのであります。さらに警戒線を突破いたしまして続々と集結いたしまして、正午ごろには生徒を含む総勢約千七百名くらいに上つたのであります。かかる情勢になりましたので、本庁といたしましては、ただちに予備隊等を動員をいたしまして、まず校門からスクラムを組んでおる朝鮮人の学生等を突破いたしまして、中に入りまして、そうしてこの無届集会を実力をもつて解散をいたしたのであります。
その際にきわめて、抵抗が熾烈でありまして、木片または石灰あるいは友等にとうがらしをまじえたものを警察官に対して投じ、あるいはその他の器具、器物等を投じましたために、多数警察官が負傷をいたしたのであります。これが單なる学校内におけるPTAの会合とは客観的にだれが見ましても考えられぬことでありまして、従つて警察といたしましては、これは純然たるPTAの会合にあらず、集会であるという見解をとりまして、これが都條例違反といたしまして、集会の解散を命じた次第でございます。

○上村委員(日本共産党公認)
われわれのところで大体報告、調査によりますと、動員された警官はまあ今おつしやつたような通りですが、その中に私服の警官かたくさんおりまして、酒を非常に飲んでおつた。いわゆる一ぱいきげんになつておつた人が相当おつた。そうして朝早いもんで、女子学生寮に土足で上り込んで、そうして就寝中の女子学生を、ふとんをまくつて、無理やりに起して、そうしてある警察官はその女子学生に対してみだらなひやかしの言葉を相当浴びせかけた、こういうことになつておりますが、そういうことがはたしてお調べになつてございますか。酒を飲んでいたのは事実か、そのときの現場の指揮者並びに責任者の名前はだれかというようなことを一応御説明願いたいと思うのです。

○田中参考人
宿舎を捜査いたしました際には、学校の職員の方々にお立会い願いまして、その上ですべて捜査いたしておりまするので、警察官がさような行為をやつたことは絶対にございません。それからなお警察官としてあるまじき行為をしたようなお話でございまするが、そうしたことは絶対にありません。

○上村委員
次に、先ほど御説明になつた三月七日の朝鮮学校事件のことですが、そのとき動員されてそこへ行つた警察官の数はおおよそどのくらいになつておりますか。こちらの方の調査によると、どうしても三千名近くおつたというのですが、今総監の説明では非常に少いですが、その点は、少くとも二千五、六百名、三千名くらい動員した事実ではないでしようか。
私どもの方で調査したところによると、警官の中でピストルをなくした者がある、それを探すためにそこへ行つた。ピストルの紛失といことが原因の一つになつているというのですが、先ほどの説明にはそれがないようですが、ピストルをなくしたということは事実でございましようか。

○田中参考人
ニュースを写しておりました捜査二課の者に対しまして朝鮮人が暴行いたしまして、カメラを奪取しようと妨害いたしたので、これを救うべく一、二の警察官が飛び出した際に、蔵前署の小泉巡査部長が單身行きましたために、群衆の中に奪取されまして、打つ、ける、なぐるの暴行を受けまして、遂に彼は人事不省に陷りまして、その際に拳銃を奪取されたのであります。

○上村委員
こういう事実はお調べになつたかどうかお伺いしたいのですが、刑事部の捜査二課の島田領四郎という警部補が、この松本氏の入院されておる病院を訪問しまして、そして松本氏を親しく三時間にわたつて調べた。そしてその文句は、お前さんのその傷は警官がやつたのではない、朝鮮人がやつたのだという意味のことを繰返して言つておるということでございますが、はたしてこういうことがあつたかどうか。あつたとすればそれはだれの命令でそういうことをしたのか。その責任はどうか。それから今総監が、全然警察側でないと言うのであるならば、この島田という警部補がわざわざそんなところへ行つてそんなことを言う必要はないと思うのですが、それらの実相はどういうことになつておりますか。それからもう一点、そのときの松本君などのカメラマンによつて撮影されたところの光景の二ユースですが、このフイルムは上映を禁止されておるということを聞いておりますが、はたしてそういうふうなことになつておるかどうか。その禁止は一体だれが命令したのか。警視庁では関係しておるのかどうか。この点を御説明願いたいと思います。

○田中参考人
ただいまの朝鮮学校のニュースの上映につきましては、上映していいか悪いかということにつきましては、警視庁は全然関係しておりません。これはどういうふうになつているか私は存じません。

卒業式

高等部 第1回卒業式

1951年3月20日、東京朝鮮中高等学校中等部第4回、高等部第1回卒業式が運動場で行われた。卒業式にはたくさんの学父母同胞が集まり、卒業生を心から祝った。
彼らは卒業生たちは民族教育を修了した初の高校卒業生となった。
「朝鮮学校閉鎖令」によって危機を迎えた朝鮮学校を立て直すためには子供たちを集め教員たちを養成しなければならなかった。しかし教員を養成する師範科も無かった。
朝鮮戦争の最中、林光澈校長は1期生たちを集め次のように訴えた。「今、祖国では共和国の青年たちが命をかけて戦っている。兵庫では『4.24教育闘争』後も自主学校として学校を守るため苦しい戦いを余儀なくされている。とくに給料も滞るなど厳しい状況の中であるが民族教育を守りぬく強い意志を持った教員が至急に要求されている。親戚も友達もいない見知らぬ土地であるが学業を中断して、兵庫の朝鮮学校にいってもらいたい。」
自主学校として民族教育を守っていた兵庫県内の朝鮮学校に高校三年生8人(姜明元、金萬敬、金鐘斗、朴鐘相、宋相浩、鄭戴鯨、崔峯澤、安琪植)が在学中にも拘わらず赴任した。
1950年10月30日、午後7時半、兵庫県の朝鮮学校に向かう8人の「高校生教師」を見送るために全校生1500人が東京駅に集まった。吹奏楽隊が「金日成将軍の歌」、「校歌」などを演奏し8人の「高校生教師」を激励した。
一期生はその後6人が朝鮮学校の教員になり、卒業生43人中14人が朝鮮学校の教員として民族教育の試練の時期に青春を捧げたのであった。
これ以降、高校卒業生たちは60年代末まで日本各地の朝鮮学校に配属され民族教育の発展に大きく寄与した。全国の朝鮮学校に東京朝鮮高校の卒業生たちの青春と血と汗の跡が刻まれていない学校はないのではないか。
当時、在日民族教育の最高学府は東京朝鮮高校であった。まだ朝鮮大学校は創立されておらず、朝鮮高校の卒業生たちは使命感に燃え、教員として在日朝鮮人運動の第一線に、日本各地の朝鮮学校に赴いたのである。

壁新聞

壁新聞「白頭山」

壁新聞「白頭山」は学生自治会の機関誌であった。当時校内には現在の「朝鮮青年同盟(朝青)」など青年たちの組織が無かった。朝鮮中学に高等部が併設された1948年、学生自治会は生徒たちの親睦を深め、祖国朝鮮の建設の担い手になる活動を活発に行うため組織された。学生自治会の初代会長は一期生の金共浩が選挙により選ばれた。壁新聞「白頭山」は当時朝鮮中・高校の名物であり校内外の新鮮なニュース、祖国の情勢、在日運動などの記事も掲載した。自治会のメンバーたちは掲載する記事を決め夜から朝まで大きな模造紙に記事を筆で何枚も書き掲示板に貼り付ける大変な作業を行った。朝、登校したほとんど生徒たちは「白頭山」をのぞいて教室に向かった。話題性のある記事は生徒たちが鈴なりになって読むのであった。「白頭山」は夏休み、春休みなどの休日にも貼り出された。「白頭山」は学生自治会の活動、スポーツや芸術活動での成果などもたくさん掲載した。とくに高校5期生の金漢文が担当した「白頭山」時代は生徒たちに大きな影響を与えたと伝えられている。
「白頭山」制作メンバーは徹夜を繰り返しながら記事を書き、生徒たちの祖国に対する愛情を育て、祖国の発展と統一のため朝鮮青年たちが進むべき正しい生き方について考えさせるにあたり多大な役割を果たした。

文工隊

「文工隊」と演劇「戦乱の中で」

1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。当時、在日同胞たちに戦争の真相を知らせ朝鮮人民軍が必ずアメリカを打ち破るとの信念をはぐくむことは緊急な課題であった。
東京朝鮮高校ではこのような時代の要請を受け、朝鮮語の教員であった南時雨の指導の下、「文工隊(文化工作隊)」が組織された。
1951年1月~2月、「文工隊」は演劇3幕6景「戦乱の中で」と歌と舞踊などを準備し浜松、豊橋、名古屋などで一カ月間地方公演を行った。
朝聯が強制解散された後「民戦」が組織されてはいたが同胞組織が無くなってしまったと思っていた同胞たちは東京朝鮮高校「文工隊」の演劇を見て涙を流し歓喜した。
名古屋での公演の時であった。演劇の一場面に南進する朝鮮人民軍が村を解放し悪辣な地主を懲罰する場面があった。その時、それを見ていた同胞たちは歓声をあげるだけでなく、演技者である生徒たちと共に舞台で地主を懲らしめるということまで起きた。
「文工隊」のフィナーレで歌と踊りが繰り広げられると場内にいる同胞たちはみなが踊りだした。朝鮮学校の生徒たちの頼もしく立派な姿に感動し、同胞社会は健在していると確信した。場内は感激と興奮のるつぼと化した。
南時雨教員は脚本を書き、生徒たちに台詞を覚える方法、演技をするときの心構えなど演劇「戦乱の中で」の指導を情熱的に行い観覧した同胞たちに勇気と希望を与えた。
演劇「戦乱の中で」には楊柄榮、金黄榮、李日姫、尹榮子、李徳鎬ら24人が出演した。

「6項目」

東京都教育庁が「6項目」強要

1952年9月、サンフランシスコ条約が発効し日本政府は日本に居住する朝鮮人は日本国籍を喪失すると通告した。27日東京都教育長は「朝鮮人子弟の公立学校への就学について」を通達し、外国人である在日朝鮮人は義務教育を受ける権利がないとした。
これは朝鮮学校をなくすだけでなく日本の学校に通う朝鮮人も学校からしめだすという重大な民族差別であった。
1953年2月、文部省局長は「朝鮮人子弟には義務教育権が無い」と重ねて通達した。
学校は「都立」であったが53年度、中学565人高校281人が入学し生徒数が400人ほど増加した。しかし入学式が終わった後にも400人分の机とイスが無い状態が続いた。
10月20日、東京都内の朝鮮人学校連合運動会が墨田区錦糸公園で盛大に行われた。その翌日、新聞は「朝鮮学校の運動会の仮装行列で天皇を冒瀆し反日色が濃い運動会」と誹謗記事を載せ、読売新聞は10回にわたり大々的なキャンペーンをはった。「赤い朝鮮人学校」、「校舎はキチガイ病院」、「運動場は軍事訓練場」などと中傷、ねつ造記事を掲載し朝鮮学校攻撃を行った。また、週刊読売はトップ記事で神奈川県横須賀市立小学校の分校(朝鮮学校)で「朝鮮人学校リンチ事件」とセンセーショナルに報道した。これは小学6年生の音楽の時間、子供たちの態度が良くないので日本人女教師が「あなたがた朝鮮にお帰り遊ばせ」との一言で授業が出来なくなり大騒ぎになったことの投書を記事にしたものである。
これらのねつ造された報道は日本人の多くが持っていた朝鮮人に対する蔑視、差別意識を利用し朝鮮学校を閉鎖させるべきとの社会的雰囲気をつくりあげていた。
12月、このような雰囲気の中で大達文部大臣は朝鮮人子弟の集団教育(朝鮮人学校)は認められないとの談話を発表した。
12月8日、文部大臣の意向を受けた東京都教育委員長は都立朝鮮人学校PTA連合会の代表を教育委員会に呼び次のような「6項目」を強要した。
①イデオロギー教育をするな②民族科目は課外に行え③定員制を守れ④生徒の集団陳情を止めよ⑤未採用教師を教壇に立たせるな⑥教職員以外の者を教職員会に入れるな 1954年3月には「6項目」を受け入れなければ朝鮮学校を廃校すると脅迫した。
それだけでなく文部省の検定を受けない教科書を使用してはならないなどの30項目にわたる細則を強要した。
都教育委員会は4月5日に予定されていた新年度の開校を無期延期し「廃校か6項目受諾か」の選択を4月9日午後5時までするように朝鮮人学校長あてに通告した。
4月9日の様子を「都立朝鮮人学校の日本人教師」(岩波現代文庫)は次のように書いている。
「4月9日の午後には、警視庁傘下の警察予備隊は都庁の周辺に待機し、装甲車は教育庁舎の前をうずめた。PTA代表が教育庁内へ入るためにも、充満した武装警察官をかき分けねばならなかった。…PTA側のすべての発言に対し教育委員会長は時計を見ながら、とにかくイエスかノーだけを聞かせてもらいたい。…」
朝鮮学校側は「6項目」を受諾する苦渋の選択をせざるを得なかった。
1954年度の新学期がスタートしたが、東京都教育委員会は一方的に定めた「定員数」を超過したとして新入生全員の入学を認めず、武装警察隊を動員し入学式を妨害した。

そして、教育委員会は朝鮮学校に通達を送った。通達の一部は以下のようになっている。

・「吾吾は朝鮮民主主義人民共和国を守護防衛し、在日朝鮮人青少年を祖国に忠誠なる子弟に育成する」等の教育目標を掲げたり、校舎の内外及び諸行事の場合、北鮮旗を掲揚したり、金日成の写真、図画等等を掲げるなど特定のイデオロギー又は政治思想に偏したと認められる教育はしないこと。
・校長以外のものを「我等の校長」などというような呼称は一切させないこと。
・校内の掲示板は原則として日本語を用い、朝鮮語を使うときには学校長にその訳文を提出させ許可を受けさせること。
・児童生徒の自治会等は、必ず教員の指導によるものとし、用語は原則として日本語とすること。
・学校新聞会、学級新聞、自治会機関誌等学校で発行パンフレット類は、その都度学校長の許可を受けさせる。

この時期、生徒たちは自治会活動を活発に行い、勉学だけでなく新朝鮮建設の担い手になる決意を胸に学校生活を送っていた。
高等部3期生は卒業の一カ月後に発行した同窓会機関誌「突撃隊(돌격대)」(1953.4.30)に同窓会規約を定め卒業生たちの活動を以下のように紹介した。

「同窓会規約」で同窓会の目的を
1.我が3期卒業生は6年間の民族教育の成果を発揮し条件如何を問わず朝鮮民主主義人民共和国と在日60万同胞のためのあらゆる運動に献身的に参加し同胞大衆に服務する。
2.我が3期生は民族を裏切らず、母校に泥を塗り友達を裏切る行為を行わない。
とした。

また同窓会の地方責任者を関東及び滋賀は金達龍、関西地方は金竜洙、中国地方は車漢基、九州は権淳徽とした。3期卒業生は69人中36人が朝鮮学校の教員になり、5人が組織の活動家に、16人が進学した。3期生の卒業後の任地によって同窓会の地方責任者は決められた。
機関誌の「主張」には「我々は共和国公民として育ててくれた多くの先生の教えを忘れずに、より祖国のため、金日成元帥に忠実であろうとの先生たちとかわした誓いが私たちを鼓舞激励している。」と書かれた。
広島の朝鮮学校に配属されたある卒業生は「私は小学2年生と6年生の2部授業と中学の理数科を教えながら元気に過ごしている。ここに来る前はいろいろ苦労すると覚悟して来たが経済的には大変ひどい状態だ。そんな中でも先生たちは団結しているし私は自分の体を祖国に捧げる強い決意を持って生活している。前途には多くの困難があるだろうが私は最後まで生徒たちと一緒に朝鮮学校を守っていく。」と決意をのべた。西神戸の朝鮮学校に配属された卒業生は「学校で聞いた時は地方で苦労するという話も『英雄的』な事のように思われ、その姿や行動も想像することしか出来ませんでした。しかし、実際には3畳の部屋に4人が生活し1日に2食を食べるだけ、知り合いもいない客地では勉強どころではなく、精神的にも余裕が無く手紙を書く時間もありません。しかし男が心に決めたからには絶対に人に後ろ指をさされないように、全力を尽くそうと仕事をしています。ここに来て2週間しかたっていませんが、もう1年間も過ぎたように思えます。
朝礼が始まろうとしています。子供たちが運動場に出て先生たちが出てくるのを待ちながら騒いでいます。」と民族教育の現場で悪戦苦闘する姿を伝えている。
(このように朝鮮高校の卒業生たちは民族教育を守るため、自分の意思で日本各地の朝鮮学校に教員として赴いた。その後1961年に師範科が新設され、71年まで多くの卒業生たちが卒業後の進路に教員を選んだ。)
だが、この時期、卒業生たちや、同胞たちの血のにじむような戦いにも拘わらず在日朝鮮人運動と民族教育は日本政府当局の繰り返される弾圧と「民戦」組織の誤った路線と指導によって大きな打撃を受けた。
多くの地方で同胞組織は有名無実になり朝鮮学校が無くなっていった。多くの子供たちが朝鮮学校をはなれ、日本の学校へ通う事態が起きていた。
同胞たちの必死のたたかいによって学校を守り、維持している地方でも連日警察の襲撃を受けていた。同胞たちの生活難により先生たちの給料も払えず学校の運営は窮地に陥っていた。
この当時、朝鮮大学校が無かったので祖国の大学に進学を希望する高校生たちも少なくなかった。一部の生徒は香港を経由するなどして朝鮮に帰国し、祖国の大学に進学する者もいた。当時、学校内にあった「民族教育研究会」は朝鮮での進学を希望する生徒たちの便宜を図るため「朝鮮民主主義人民共和国各種大学、技術学校一覧」を配布したりした。
6期生たちは「祖国進学入学試験」を実施し合格者の発表もした。この生徒の一人、金尚玉は1956年、香港経由で朝鮮に帰国し、金日成総合大学物理学部を卒業した。卒業後金日成総合大学で教鞭をとりながら30冊の参考書、40件の論文を執筆し、「魚群探知機」を性能を各段に向上させ、「セラミックス」製作技術を世界水準に押し上げた。1990年にジュネーブで開催された第18回国際発明及び新技術展覧会で金賞を授与された。金尚玉教授は「共和国労働英雄」、「人民科学者」、「共和国院士」(朝鮮で学術研究者の最高の称号)の栄誉を授かり現在(2016.10)も金日成総合大学で教鞭をとっている。

サッカー部

サッカー部が大活躍

「都立高校」であった厳しく複雑な状況で東京朝鮮高校サッカー部は1954年度全国高等学校サッカー選手権大会で初参加ながら全国3位と大活躍した。
この当時の活躍を「東京朝鮮中高級学校10年史」(1956.10.5)は次のように記している。
「朝鮮中高級学校のサッカー部の創設はその土台が学校創立の時からあったといってもよい。それは本来、朝鮮人がサッカーが好きなので『部』としては組織されていなかったがサッカーが好きな生徒たちが運動場でボールを蹴っていた。そんな中である時には日本の学校とも試合をしたしサッカー大会で優秀な成績を収めたこともあった。このようにサッサー部が誕生する土台は初めからあったが正式な部をつくるには至っていなかった。1954年4月に許宗萬、禹永玉、元龍延、李成雨等で新しい運動部として出発した。金世炯先生を監督、高仲先生(都立高校時代の日本人教師)を部長とした。部といってもサッカーボールも無くユニホームも無い貧弱な部であったが日本学校との試合ではいつも優秀な成績を収めていた。
当時の部員は3年生禹永玉、李成雨、元龍淵、許宗萬、呉正煥、2年生姜準模、金柄哲、李東揆、金尚玉、朴淑男、1年生金明植、卞鐘律とどうにかチームとして成り立つ部員数でしかなかった。
その年の6月、金世炯先生の尽力により日本高等学校サッカー協会に加入することが出来、公式戦に出場する道が開けた。
1954年7月下旬に行われた東日本高等学校選手権大会に出場したサッカー部は、朝鮮人の誇りを胸に抱き全校生の応援を受け無事初戦を突破した。2回戦は優勝候補である甲府一高に3対0で勝った。この時になってようやくサッカー協会は朝鮮高校が強いことを知り関心を寄せた。
その後もサッカー部は勝ち進み、準決勝で宇都宮高校と対戦した。延長戦までもつれ込んだが勝敗が決まらず、残念にも抽選で負けてしまい悔しい思いをした。
結局宇都宮高校が優勝し、本校は3位決定戦で教育大付属高校に3対1で勝利した。この大会で朝鮮高校チームの紳士的で若者らしいプレーや行いは、同胞はもちろん日本の観衆たちにも深い感銘を与え、共和国の青年の栄誉を遺憾なく発揮した。
1954年度全国高等学校サッカー選手権大会が大阪西宮競技場で行われ、本校は東京代表として出場した。
その時、サッカー部はただの朝鮮学校の代表だけでなく朝鮮民主主義人民共和国代表として参加する気構えでいた。
1回戦は島原高校と対戦し2対1で勝利、2回戦の東北代表の対育英高校戦では1対0で勝利するも、準決勝の浦和高校戦は0対7と完敗を喫した。
しかしサッカー部が創部されて1年もたたずに東京代表として全国大会に参加し準決勝まで進出することが出来たのは選手たちに朝鮮人としての自負心があったからである。
後日、当時の選手に話を聞くと関西地方の同胞たちの応援に対する対応、差し入れ等で多くの選手たちが体調を崩してしまいベストな状態で試合が出来なかったと反省していたという。
この時活躍した選手たちは卒業後、在日同胞社会発展に大きく寄与した。許宗萬、李成雨は総聯の議長、副議長に元龍淵、李東揆は朝鮮に帰国しサッカー朝鮮代表にアドバイスをした。李東揆はサッカーテレビの解説者として人気が高かく、昨年(2015.12)死去したが朝鮮でも社会に大きな貢献をした人物だけが葬られる「愛国烈士陵」に埋葬された。金明植は日本代表チームと試合をしてもひけをとらなかった在日朝鮮蹴球団の主将として大活躍した。金明植は東京朝鮮高校のサッカー部監督として15年間生徒を指導し、1972年にはサッカー部の生徒を引率し金日成主席の接見を受けた。

昂揚期

「東京都立」からの脱却、民族教育の一大昂揚期への土台が確立

「都立」という厳しい状況の下、東京朝鮮高校の卒業生たちは生活上の何の保証もない中で祖国を守り、同胞社会と民族教育のために悪戦苦闘し深刻な苦しみに耐えていた。
まさにこの苦難の時期、金日成首相は在日朝鮮人運動で主体性を確立するよう在日同胞たちの進むべき道を示された。韓徳銖議長をはじめとする中核的な活動家たちは在日朝鮮人運動で主体性を確立し祖国の統一と民主主義的民族権利を擁護する運動に路線を転換するため、総聯結成の準備を行った。運動転換の理論構築のメンバーには韓徳銖議長をはじめ李心喆、金秉昭、李珍珪、そして当時の朝鮮中高等学校の校長であった林光澈がいた。
総聯結成を準備していた活動家たちの精力的な活動により1955年3月30日、東京都内の朝鮮学校は「東京都立」を脱却し、自主学校である東京朝鮮中高級学校として再出発した。
東京朝鮮第3小学校で教員をしていた鄭求一はこの当時を次のように回想した。
「東京朝鮮第3初等学校も12月20日、都立学校として発足した。東京都立朝鮮第3小学校に看板が変わった。校長や担任教師が日朝で2人ずつ、卒業証書も2通りというありさまだった。
都立の初期、私たちは、不当な制度だといって反対もし、ビラを刷るなどして闘った。子供たちも『日本人先生嫌だ』といって、日本人教師による授業を拒否したこともあった。日本の教師たちも矛盾を感じていた。また、なぜ日本の公僕を使って、在日朝鮮人の教育をしなければならないのかという意見も政府要員の中にあったのも事実である。
在日本朝鮮人総聯合会(総聯)結成準備過程で、都立存続か、私立移管かの論争が繰り広げられた。東京中高等学校の会議室で、私立移管を力説していた李心喆氏が印象深かった。
結局、私立移管、自主的な学校運営の正しい方向に決まった。そうして、54年3月「都立制度」は廃止され、私立移管の自主的運営に変わり、民族教育における主体性を取り戻すことができたのである。」(朝鮮新報「民族教育に捧げた半生」2004.4.17)
これに先立つ3月3日、東京朝鮮学園崔容根理事長は「東京朝鮮中高級学校設置認可申請書」を東京都に提出した。
学校設置趣意は次のように書かれた。
「本校は終戦直後、東京都内在留朝鮮同胞たちがその子弟たちに民族的素養を身に着けさせようとの熱望により自主的に設置され、1948年東京朝鮮中高等学校として私立学校の認可を受けた。だが1949年10月改組通告により学校の存続が不可能になり1949年12月東京都立朝鮮人中高等学校として発足した。しかし1955年3月に都立を廃止するとの東京都教育委員会の通告により、朝鮮人子弟の教育に重大な支障をきたされたので子弟教育の円満な発展のため学校法人東京朝鮮学園を設立し、この法人の運営によりこの学校を東京朝鮮中高級学校として各種学校の設置認可申請を行う」
3月23日に「学校法人東京朝鮮学園」の認可を受け、都内の朝鮮学校は朝鮮学園を運営母体とする各種学校として再出発した。
1955年4月1日、東京朝鮮中高級学校で入学式が行われた。中級部新入生507人、高級部新入生360人が入学し学生総数は2236人に達した。
4月20日には学父兄定期総会が行われ、新しい教育会の会長に呉任化、副会長に金尚起、黄錫周が選ばれ、常任理事、理事等40人で教育会理事会が構成された。
呉任化会長は前尹徳昆会長に次いで1954年から教育会の2代目の会長を務めていた。呉任化会長は愛国的商工人として在日朝鮮人運動発展にに多大な寄与をしていた愛国者であった。共和国最高人民会議が1954年に祖国統一実現を呼びかけるアピールを在日同胞140人に送ったが、その一人が呉任化会長であった。
金尚起副会長は当時教育図書出版社「学友書房」の社長であり、祖国解放直後から夫人の朴静賢(女性同盟中央委員長)と共に民族教育をはじめとする愛国事業に大きな貢献をした活動家であった。黄錫周は呉任化会長を継いで3代目の会長に就任しその後東京朝鮮学園の理事長として活動した。

1955年5月25日、朝鮮総聯が結成された。これにより在日朝鮮人運動は民戦のような日本共産党の指導に基づく日本の民主化のための運動でなく、在日朝鮮人の権利擁護と祖国統一に寄与する大衆組織として大きな一歩を踏み出した。
総聯が結成される前には教員や活動家としての配置任命を代々木の共産党本部で行っていたのである。
総聯結成大会で採択された8大綱領の第4項は「われわれは、在日朝鮮同胞子弟に母国の言葉と文字で民主民族教育を実施し…民族文化の発展のため努力する」と規定した。
また学校教育を強化するため、学校建設が可能な地域から建設事業を促進し、その条件を醸成していくこと、既成の自主学校は学校認可手続きを広範な日本人の支持を得て積極的に推進し、学校施設を整備し、日本学校に在学している朝鮮人生徒児童を朝鮮学校に受け入れるように提起した。
こうして朝鮮総聯の結成により民族教育は一大昂揚期を迎える。

民族教育

「都立」からの脱却民族教育で主体性を

朝鮮総聯の結成を目前にした1955年4月1日、東京朝鮮中高級学校の入学式が行われた。
3月31日、「東京都立朝鮮人中高等学校」は廃止され3月23日に東京都から認可された学校法人「東京朝鮮学園」を経営体とする各種私立学校「東京朝鮮中高級学校」として再出発したのである。この日、中級部507人、高級部360人の新入生が入学し学生総数は2236人に達した。このうち、日本学校から入学した新入生は中級部71人、高級部115人であった。校長には林光澈が就任した。林光澈校長は都立に強制移管される直前まで校長を務め、それ以降も「ウリ校長」として学生たちに尊敬されていた。
1955学年度の教職員陣容は林光澈(校長)、宋枝学(高級部教務主任)、金如斗(中級部教務主任)を含めた64人の教員、また呉任化(教育会会長)、金尚起(副会長)、尹徳昆ら38人の理事によって教育会が構成された。
「都立」から自主学校への再出発をするにあたって何よりも重要な課題は教育で主体性を確立する対策を至急に講じることであった。「都立」時代には、母国語による教育を徹底して行うことが出来ず、学生たちを祖国と民族の未来を担う人材に育成するという民族教育の理念・目的とかけ離れた中途半端な教育しか行うことが出来なかったのである。
1955年4月、東京朝鮮中高級学校として再出発するにあたり教職員会議で五つの方針が決められた。

1.「都立」時代の悪弊を一掃し新しい校風を確立する。
2.「都立」時代に指導がなされなかった「国語常用運動」を推し進め、学生たちを国際主義に基づいた愛国主義思想を兼ね備えた社会主義祖国の担い手に育てる。
3.教員の力量を向上させ、学生たちの勤労精神を培い、校内美化運動を活発に行う。
4.教育施設を整備拡充し、学生たちの学力をより高い水準に押し上げる。
5.遅刻欠席をなくし、「学生規則」を順守するよう指導する。

学生自治会でも教職員会議の方針に沿って、新学年度の目標を「1.学力向上のため自主的な学習習慣の確立。2.教室清掃、花壇作りなどの美化運動の推進。3.学生自治会活動の活性化。4.集団的指導と点検による国語常用の徹底化」とした。
このように「都立」時代に指導が徹底されなかった国語(朝鮮語)教育をはじめとする民族科目教育に大きな力を注ぎ、学生たちを祖国建設の担い手に育てるという目標に向かって新学年度が始まった。

4月27日、第一次校舎増築棟上げ式が行われたその日、一通の手紙が舞い込んできた。それは金日成総合大学から送られてきたものであった。手紙は民族愛にあふれた言葉で埋め尽くされ、それ以降も祖国の学校の先生たちや学生たちから数百通の手紙が引き続き送られてきた。学生たちはこれらをクラスごとに回覧し、書き写した。それを壁新聞のように教室に張り出し感激に浸っていた。この手紙は日本で生まれ育った学生たちが初めて受け取った祖国からの手紙であり、「私たちには、祖国がある!」と肌で感じられるものであった。読めば読むほど喜びで胸が熱くなり、新しい力が湧き、涙なしには読むことが出来ない手紙であった。

民族教育は朝鮮総聯の結成(1955.5.25)により新たな発展の道を大きく歩み始めた。総聯は8大綱領を採択しその第4項で「在日朝鮮同胞に母国のことばと文字で民主民族教育を実施し…民族文化発展のために努力する」とした。そして、民族教育の目的を「在日朝鮮人青少年たちを共和国の忠実な息子・娘に育てること」と定め「祖国の教育文献を深く研究し、これを日本の実情に合うように創造的に適用し、民族教育を発展させるように教育研究を強化する」とした。
新学年度から校長を総責任者として教務委員会の指導の下に学科分科会、学年担任部会、クラブ活動指導部会を新たに設け、祖国の教育文献を研究し学生指導の向上に大きな力を注いだ。
1955学年度に「学生規則」を制定した。これは学生たちの学習や集団生活で守るべき規則や道徳・礼節などの規範であった。この25項目の「学生規則」が実効性を発揮出来るように「この規則を違反する学生は退学させることもある」と「学生規則」の最後に明記した。これにより学生たちは自身の行動を「学生規則」に則り自己点検するようになった。「学生規則」の実施により授業態度が改善され、すすんで勉強する学生たちの数が増えるとともに勉強が遅れた友達を教える学生たちが目立つようになった。また、掃除の徹底や花壇にいつも花が植えられるなど校内美化でも大きな変化が現れるようになった。

1955学年度から校服(学生たちの制服)を新しく指定した。男子学生たちの校服は折襟の学生服(学ラン)に学生帽(3ペンの校章をつけた)、中学生の男子は丸刈にするようにした。女子学生はセーラー服を校服に定めた。当時、一部学生たちの日本の流行を追った服装や、貧困家庭の学生たちのみすぼらしい服装など、至急に校服を制定することが要求されていた。校服が指定されたことは学生たちの学校生活の改善の大きな転機となった。この「学生服の規定」は保護者の経済的負担を軽減しながら、学生たちの意思の統一と学校生活での規律の確立にも大きな役割を果たした。

その後女子学生の校服は1959学年度からチマ・チョゴリを第一制服と指定し1962年からは完全実施された。1959学年度の総括報告書には次のように記録されている。 「女子学生の校服が指定された以降、学生たちの服装は端正なものになった。…民族の誇りと自覚を持ち学校生活を送る事実は、女子学生が民族の伝統である朝鮮服(チマ・チョゴリ)を自ら進んで着る姿を見ても推し量ることが出来る。朝鮮に帰国を希望する多くの女子学生たちがすすんで朝鮮服を着るようになった。特に高級部1年9班は日本の中学出身者たちのクラスにも関わらず、担任教員がチマ・チョゴリ着用の意義を粘り強く諭したことによりクラスの半数以上が朝鮮服を着るようになった。学校は多くの女子学生が自主的に朝鮮服を着用するようになった状況を分析判断しチマ・チョゴリを女子学生の第1校服に定めた。現在(1959年当時)、女子学生が朝鮮服を着ている姿は本校が内容と形式において名実共に民主主義的民族教育の場になっていることを端的に示している。」
1990年代後半に「核疑惑」、「ミサイル問題」などを口実に反共和国、反総聯キャンペ-ンが露骨に行われ、本校女子学生たちのチマ・チョゴリが切り裂かれるという事態が頻発した。このような状況に対応して1999年4月から全国の朝鮮学校で登下校時の女子学生に第2校服(ブレザー)の着用が出来る措置をとった。
また男子学生の校服は学校創立40周年(1986.4)を機に現在のブレザーに変えた。

1955年7月2日、在日朝鮮人学校PTA連合会と在日朝鮮人教育者同盟の合同会議が行わた。この会議で「在日朝鮮人教育会」が結成され初代会長に尹徳昆が就任した。また在日朝鮮人教育者同盟は「在日本朝鮮人教職員同盟(教職同)」に改称・改編され、委員長には林光澈が就任した。林光澈は東京朝鮮中高級学校校長を兼任した。

今年(2017年)は「教職同」結成70周年にあたる年である。以下に「教職同」結成の経緯を記す。朝鮮人聯盟(1945.10.15結成)の第3回全国文教部長会議(1946.12.10)において教員組織の結成問題が討議された。第4回会議(1947.6.25)が東京朝鮮中学校で行われ中央本部の組織に先行して地方組織・支部から作っていくことが決定された。
1947年6月28日、初の朝鮮人学校教員組織として「在日朝鮮人教育者同盟東京支部」の結成大会が東京朝鮮中学校の講堂で行われた。結成大会には韓徳銖文教局長以下、200余名の教育関係者が参加し民族教育と成人啓蒙運動を積極的に推進していくことを決議した。東京支部の初代委員長に金如斗(東京第2校長)、副委員長に林光澈(東京朝鮮中学教務主任)、執行委員長に李殷直ら16名の役員が選出された。
大会では「我々は民主朝鮮建設という徹底した教育理念を再確認し、教員の最低生活擁護と教員自身の自己錬磨と向上のため努力し、これからの祖国の柱となる忠実で健康な国民を養成する」と宣言した。
1947年8月28日、全国的な中央組織として「在日朝鮮人教育者同盟」が結成された。結成大会は東京朝鮮中学校講堂で28の地方支部の代表104人が参加して行われた。初代委員長は崔容根(朝聯青年部長)、副委員長には金如斗(東京支部委員長)が選出された。
現在(2017.3)、 在日本朝鮮人教職員同盟中央本部委員長は趙澣柱(東京朝高15期)である。

総聯結成当時、一部教員たちの中には在日朝鮮人運動での路線転換と総聯結成の意義をよく知らなかったり、疑問を持つ教員もいた。このような問題点を克服するため1955年8月、夏休みを利用して総聯と教職同の主催で関東地方朝鮮学校教員たちの講習会が行われた。参加者69人中35人が東京朝鮮中高級学校の教員たちであった。講習会では路線転換の必要性に関する講義と討論が行われた。討論を繰り返す過程で在日同胞は日本の革命のためでなく祖国のために戦わなければならないこと、祖国との密接な関係の下に自身が主体となって愛国運動を展開しなければならないことを確かめた。この講習会は民族教育で主体性を確立するうえで大きな意義をもつものであった。

1955年8月、金日成首相は「祖国解放10周年慶祝在日朝鮮人祝賀団」を祖国に招請した。この招請に応じ8月28日、林光澈校長を団長として李興烈(東京朝鮮中高級学校教育会常任理事)を含む4人で構成された代表団は多くの同胞たちが見送る中、羽田を出発した。
解放新聞(朝鮮新報の前身)は9月1日号で「栄光に満ちた祖国への道」、「祖国訪問団空路で出発」、「同胞たちが熱烈に見送るなかで」との見出しで「解放後初の朝鮮への公式代表団を送る同胞たちの感激」の様子を詳細に伝えた。
香港、広州、北京を経て朝鮮への国境を越えた祝賀団は新義州駅で同胞たちの熱烈な歓迎を受け花束を贈られた。祝賀団は9月6日にピョンヤンに到着、在日祝賀団を歓迎する盛大なピョンヤン市群衆大会がモランボン劇場で催された。
9月29日、金日成首相は在日祝賀団を接見された席で異国の厳しい状況の中で民族教育を守り、自分たちの力で大学の創立準備をしていることを高く評価された。そして在日朝鮮人子女のために教育援助費と奨学金、教科書などを送ること、祖国に進学を希望する学生たちを受け入れる用意があることを示された。
林光澈校長は祝賀団の活動状況と祖国の様子などを数回にわたり手紙に書いてを送った。教員学生たちは校長からの手紙を読むたびに感激で胸がいっぱいになった。学生たちは「祖国に学ぼう!」という標語を掲げ勉学に励んだ。

同胞達も金日成首相の在日同胞たちに対する配慮と朝鮮戦争後の復旧建設に立ち上がった祖国の人民たちの姿に感動し、第2次校舎増築に奮起した。新校舎は550万円の予算で木造2階建て理科実験室を含む8つの教室を新築した。(1955年当時と現在の貨幣価値は20倍強といわれている。現在の金額に換算すると約1億2千万円に相当する)理科実験室の設置は理科教育の水準を高め、学生たちの学習意欲を向上させる大きな契機となった。草創期から運動場にあった山を崩し、防火水槽などの水たまりを整地してきた学生たちの苦労により広々とした運動場が出来、花壇が造られ花が植えられた。
「都立」時代に教鞭をとっていた日本人教師たちは一変した学校の姿に「このように変わるなんて夢にも思わなかった!」と驚きを隠せなかったという。
1955年10月5日、学校創立9周年を祝う運動会が行われた。
運動会は8000人の同胞たちで埋め尽くされた。同胞たちは秋空の下ではためく共和国国旗を眺めながら胸をはり行進する2000余名の学生たちの姿と新築された校舎を目にして感動をこらえることが出来なかった。同胞たちは総連の結成と民族教育の正当性を肌で実感した。
1956年1月に学生たちの組織であった「学生自治会」を解消し在日本朝鮮青年同盟(朝青)(1955.8.1結成)の下部組織として高級部に「朝青東京朝高委員会」、中級部に「東京中高少年団委員会」を組織し活動を開始した。1958年5月に行われた総聯第5回大会で「朝鮮学校に『朝青』、『少年団』を組織すること」の決定がなされたが2年前、すでに活動を開始していたのであった。初代の朝高委員会委員長は康成輝(8期生)である。

10周年

創立10周年を迎え

学校創立10周年を迎える1956年度入学式が4月3日に行われた。新入生は中級部459人、高級部411人で全校生数は2208人になった。
入学式では宋枝学を校長代理として発表した。代表団として前年8月に朝鮮に行った林光澈校長は日本への再入国を要求中であった。1956学年度から教員たちの配置を総聯東京都本部が任命した。卓熹銖、金如斗教務主任をはじめ全教員の任命を東京本部が行った。

4月10日、朝鮮大学校が東京朝鮮中高級学校の敷地内の仮学舎(現在の4階建校舎の位置にあった5つの教室)で84人の新入生と10人の教員、7つの学科を持った、二年制の大学として発足した。朝鮮大学校は総聯中央委員会の会議(1955.9.23)で朝鮮師範専門学校(1953.10創立)を朝鮮大学校に昇格させることをきめ創立準備を行った。その後「朝鮮大学校中央建設委員会」(建設委員長、金成律)を発足し朝鮮から送金された第2、3次の教育援助費を大学建設基金にあて新校舎を東京小平に竣工し、1959年6月13日新校舎への移転式を行った。朝鮮大学校が創立されたことにより、民族教育は高等教育に至る整然とした教育体系を確立した。

1956学年度、学校は年間目標を1.祖国の配慮を心に刻み学校生活を送り、祖国との連携を強化する、2.学生たちの学力と品性を向上する、3.学校の教育施設を整備すること、4.学校創立10周年記念行事を行う、5.卒業生たちの進路指導を強化することと定めた。
総聯が結成されて1年にも満たないなかで始まった1956学年度であったが総聯はカリキュラム、学校規定を定め、教育行政や学校で扱われる書類の様式を統一し、各学校で実施するよう指導を行った。民族教育の秩序を確立するうえでの画期的な措置であった。

総聯結成以降、朝鮮から教育関係の書籍、新聞、学校教育に関する規定などの文献がたくさん送られて来るようになった。社会科の責任者であった朴慶植は1956年度社会分科の年間総括で朝鮮から送られて来た文献に関する学習の状況を報告している。報告書では、①朝鮮労働党第3回大会での金日成首相の祖国統一方案に対する学習と討論、②韓雪野教育相が教育者大会で行った報告に基づいた「愛国思想と直観教育(図形、模型、グラフなどを利用し学生が自身の眼でイメージ出来るような授業形態)」に関する研究討論、③教育雑誌「人民教育」(1956.8月号)に掲載された生産技術教育に関する論文の学習とこれらを民族教育の現場でどのように活用していくかの論議を繰り返したと報告されている。このように1956年度は祖国との関係を深めながら朝鮮学校での教育行政の秩序が確立されはじめた時期であった。
共和国政府は金日成首相が言明した通り1955年11月、朝鮮で使われている教科書と教員用参考書を日本に送って来た。教科書と教員用参考書を手にした教員たちは民族教育の質の向上にまい進する決意をいっそう強くした。1956学年度から朝鮮で使われている教科書を使用するにあたって教員たちは祖国の教科書の研究を熱心に行い授業の準備をした。当時、民族教育を行ううえで不可欠な課題は民族教育の目標を達成することが出来る教科書を使用することであった。教科書を編纂する力が整っていなかった当時にあって朝鮮の教科書が送られて来たのは民族教育で主体性を堅持し教育の質を高めるのに大きな意義を持っていた。
1956年度から全国の朝鮮学校で祖国の教科書(学友書房で翻刻発行)による授業が行われ、学生たちは祖国の学生たちと同等の教育を受けているとの喜びを感じながら勉学に励んだ。学生たちの学習意欲が高まり成績も上がった。中級部3年では1学期の平均点が2点(5段階評価)の落第点だった75人が2学期には43人に減ったと報告されている。

しかし、当時深刻な問題は「国語常用運動」が掛け声だけに終わり、校内で学生たちの会話のほとんどが日本語であったという現実であった。
当時の学校新聞(학교소식1958.7.15)には「君も私もウリマルを!国語常用標語募集」という見出しで「…以前から『国語常用』に関する指導方法について全教職員が討論し、学生自身の自発的運動として何回も推進されて来たけれど解決されないままでいる。新学年度が始まり中級部3年生では標語を作り学生たちにひろく呼びかけ国語常用運動に貢献できるようにしている。標語入選作は1位『빛나는 우리 말 우리들이 지키자(輝かしいウリマル我らが守ろう)』、2位『말이 있어야 나라를 이룬다(言葉があって国を成す)』、3位『피흘려 지킨 우리 국어 영원히 애용하자(血を流し守った朝鮮語、永遠に愛用しよう)』」と記されている。また、「解放新聞」(1956.10.6)の「土曜随想」欄に宋枝学校長代理は学校創立10周年に際しての随想として次のように書いた。「…4.24の銃弾跡と10.19(学校閉鎖令通告)の傷跡、そして『都立』の『ケロイド』の痕が痛々しいのに日本語で話す学生たちを見るたびに胸が張り裂けそうになるのは教師の単純なる感傷でなく骨身にしみる痛さである。」
(宋枝学は『朝鮮語小辞典』[1960,大学書林]を編んだ。これは日本で戦後初めて大手出版社から出た朝日、日朝辞典で1960年代多くの在日同胞、学生たちが使用した。)
しかし、帰国運動が盛んに繰り広げられた時期に「国語常用運動」で大きな成果を収めたことが1959年度の総括報告書には次のように記されている。「『国語常用運動』を活発に推し進める学校の指導方針に沿って対策を講じた結果大きな成果を達成した。何よりも国語の重要性と優秀性を認識する指導と学級単位で激しい討論を繰り返えす過程で創意工夫された『国語常用運動』が展開された。高3では『国語常用運動』の腕章をつけ下級生を指導し、学級ごとに総括をしその結果をグラフで表示した。高2では朝青の役員たちによる決意大会が行われ、高1では朝鮮文字を正確に書く運動と相互批判が熾烈に行われた。中級部では学級総括が行われ学内放送を通じて『国語常用運動』の雰囲気を高めた。特に学生数の半数近くを占める日本学校出身者に対する朝鮮語学習に大きな力を注いだ。」

1955年に校舎の増設を行ったが、学校は依然として教室が不足している状態であった。1956年度には全校学生数2208人に対し学級数は39クラスであり1クラス平均学生数は57人、中学1年1組の学生数は実に77人であった。
このような状況の中1956年5月、教育会の総会で14教室からなる第3次新校舎建設(予算11,000,000円)が決議され、9月20日に棟上げ式が行われた。
新校舎建設の機運が高まる中、学校創立10周年記念行事責任者会議が6月と9月に行われ記念行事の準備が進められていった。
東京朝鮮中高級学校創立10周年を記念する文化祭が10月3日、東京豊島公会堂で1500人が参加して行われた。文化祭では宋枝学校長校長代理と呉任化教育会会長が挨拶した。文化公演では合唱、舞踊、演劇が上演された。中でも朝鮮民話を題材にした舞踊劇「콩쥐밭쥐」と学校が歩んできた10年間の道のりを表現した演劇「오라또리오」は観客たちに大きな感動を与えた。
5日には創立10周年記式典をはじめとする多彩な行事が東京朝鮮中高級学校で7千人の学父母と同胞が参加して盛大に行われた。
午前9時、学校創立10周年記念運動会が行われ、午前の競技が終わった午後1時から開校10周年記念式が運動場で行われた。記念式では初めに「人民儀礼」を行った後、宋枝学校長代理が式辞を述べ、呉任化教育会会長が挨拶をした。続いて、表彰状および感謝状が民族教育を守り発展に寄与した教員と愛国的な同胞たちに授与された。また、朝鮮にいる林光澈校長と崔泰鎮先生に記念品が贈呈された。表彰されたのは草創期から教鞭をとっていた林光澈、宋枝学、崔泰鎮、金鐘淳、車鳳洙、宋正鉉と寄宿舎の管理運営に尽力した卓熹銖、「3.7事件」(1952.3.7の警官5000人が学校を不当に襲撃した事件)で負傷したリ・ジョンファル、リ・キョンファン、体育館の建設に貢献したキム・ピョンジン,リ・オダル同胞らであった。
記念式では総聯中央韓徳銖議長が祝辞を述べた。議長は「今までの成果に驕ることなく今後、教育の質を向上させ祖国の立派な担い手をより多く育成することを期待する。」と創立10周年を祝った。共和国教育相名で送られて来た祝電も紹介された。祝電には「…共和国の全教育関係者はあなたたちがこれからも在日青少年たちを科学的世界観と先進科学技術で武装することにおいてより多くの成果があることを願います」と記されていた。また、南は九州朝鮮中高級学校、北は室蘭朝鮮人学校に至る20余通の祝電が送られて来たことが紹介された。
この日の記念行事は運動会と同時に理科室と理科実験の公開、美術展、写真展覧会などが行われた。

奨学金

祖国から送られて来た教育援助費と奨学金

1957年4月19日、金日成首相が言明した通り朝鮮赤十字会は1億2千万円の莫大な教育援助費と奨学金を日本に送金した。(この額は現在の貨幣価値に換算すると約25億円に相当する。教育援助費は現在(2016.4)まで162次にわたり総額で477億8千万円が送金された。)
総聯結成後、民族教育は急激な発展を遂げたが同胞たちの生活は依然として苦しく学校運営も経済的に非常に厳しい状況にあった。校舎も「朝鮮学校!ボロ学校!」という言葉通り学校としての体をなさないものがほとんであった。教育設備も脆弱であったり、教員たちの月給は最低生活水準も維持が出来ないほどの額、それさえも滞るような状況であった。
金日成首相は1956年10月に朝鮮を訪問した日本の第2次国会議員訪朝団に共和国から送金する民族教育の教育援助費と奨学金を日本政府が受け入れるように依頼した。当時、日本政府の承認なしには朝鮮から送金することが出来なかったのである。11月19日、朝鮮赤十字会は日本赤十字社に対して「貴社を通じて教育費および奨学金を、在日朝鮮人教育会に伝達出来るように援助を乞う」との要請を行った。総聯でも1956年12月12日、教育援助費を受け入れを国会に要請し1957年2月14日にも、衆議院外務委員会で教育援助費を受け入れるようにかさねて要請をした。このような経過を経て1957年4月19日、第1次教育援助費が朝鮮赤十字会・李炳南委員長名義で在日朝鮮人教育会・尹徳昆会長あてに送金されて来たのである。
教育援助費を送ってくれた金日成首相と祖国の人民の限りない恩情に教員たちは社会主義教育、国語教育を強化する一方、日本学校に通う朝鮮学生を朝鮮学校に受け入れるための活動をいっそう積極的に行うようになっていった。
学父母や同胞たちは校舎の建設に力強く立ち上がった。1957年から58年の1年間に3千6百万円の建設基金を集め木造2階建ての校舎と付属施設を建設したのである。
教育援助費と奨学金が送られて来た感激を韓徳銖議長は「祖国の愛は限りない」(조국의 사랑은 따사로워라)という詩にこめた。これに当時本校の音楽教員であった崔東玉が曲をつけたのであった。1957年5月に創られたこの歌は今日まで歌い継がれている。

帰国

帰国運動

今年、2017年は本校サッカー部員が在日朝鮮学生として初めて祖国訪問を訪問したときから45年が経つ。現在、朝鮮学校の学生たちは高級部3年時に修学旅行で祖国を訪問するだけでなく初中級部の学生たちも「ソルマジ公演」出演者や「コマチュック」優勝チームなどが祖国を訪問している。修学旅行で初めて訪れた高校生たちは人民たちの熱烈な歓迎をうけながら白頭山に登り、板門店で祖国分断の悲劇を目撃し、同世代の青年たちと交流する過程で祖国を肌で感じ、「異国にあっても朝鮮人としての誇りを胸に刻み生きてゆく」決意を新たにしている。
しかし、過去には祖国への帰国の道も閉ざされ朝鮮への修学旅行は夢のまた夢であった。1950年代、東京朝鮮中高級学校の学生たちがどのように帰国の道を選んだのかを振り返ってみる。
金日成首相は1955年9月29日、祖国解放10周年慶祝在日朝鮮人祝賀団の林光澈団長(当時本校校長)に次のように述べた。
「現在、在日同胞たちに安定した仕事が無いため、その日暮らしの同胞が多く、生活が大変苦しいことでしょう。彼らが日本で生活するのが大変なので祖国に帰ってくるというならば我々は喜んで迎えるでしょう。もちろん祖国では戦争の復旧建設がまだ終わっていないので生活上の困難が無いわけではありません。しかし在日同胞を受け入れることは出来ます。祖国では現在労働力が足りません。在日同胞が帰国すれば、その能力にあった仕事を保障することが出来ます。在日同胞が祖国に帰ってくるのは当然のことであるけれど、あくまでも闘争し、正々堂々と帰って来なくてはなりません。」
そして、1955年12月29日、南日外相名で「朝鮮民主主義人民共和国政府は祖国で教育を受けるため帰国する学生たちを歓迎し、帰国した学生たちの一切の生活を保障する。日本で勉強する大学生たちに奨学金を送る。」との声明が発表され、1956年1月16日には「在日朝鮮学生たちの祖国での学業の保障、生活準備金を支給することについて」との「共和国内閣決定7号」が発表された。「内閣決定7号」は「共和国で学ぶことを希望するならば共和国政府は彼らを歓迎し、国費による教育を保障し国家奨学金と衣服、靴、学用品の無償供給する。そのほか帰国後は即時に2万円の生活準備金を支給し、大学生には一人当たり1500円、中学、高校生には1000円を支給する」とした。
これらの措置は金日成首相が林光澈校長に表明した方針を具体化させたものであった。

学生たちは、それまでも「祖国で勉強しよう」という気持ちはあった。しかし、たび重なる共和国政府の呼び掛けに、祖国進学を現実問題として、切実な問題として身近にとらえ始めたのであった。
総聯はこれを受けて「祖国進学対策委員会」を設立した。1956年に「祖国進学班」を組織、5月19日に朝鮮大学校で「祖国進学1次試験」を行い47人中36人が合格した。そのうち25人が池載基、金尚玉、全潤玉らの東京朝鮮中高級学校生たちであった。金尚玉(6期生)は1956年12月6日、日本を出発し香港経由で12月14日朝鮮に到着した。金尚玉は帰国後、物理学を専攻しその後「共和国労働英雄」、「人民科学者」の称号を授与され、現在(2016.10)も金日成総合大学で教鞭をとっている。付け加えるならば金尚玉は1955年全国高校サッカー選手権大会で全国3位の成績を収めた時のメンバーである。

しかし、これに先立つ2年前、朝高5期生の孫哲奎、李平善ら4名と6期生1名が舞鶴港から漁船で共和国に向った。誰にも伝えず行った無謀な帰国であった。その後ラジオの「ピョンヤン放送」で彼らが朝鮮の漁港である、オチョン港に漂着したこと、5人が金日成総合大学に進学したことが伝えられたのであった。
1950年代後半、多くの在日同胞は生活苦にあえいでいた。職業差別、就職差別などにより土木建築の日雇い、くず鉄商、飲食業など限られた職業に従事せざるを得ず、日本企業への就職はほとんどすることができなかった。このことは当時、在日朝鮮人の完全失業率が5.14%で日本人の8倍であり、生活保護率も日本人の10倍以上という数字に表れていた。また、このころ開始された国民健康保険の対象からも除外され、公営住宅への入居も出来なかった。
当時の学校の記録には、高級部2年生270人中、生活苦で退学、休学した学生が12人、仕事をしながら学校に通う学生が26人、弁当を持って来られない学生が70人であると記されている。卒業後の就職で悩み、進学を諦めざるを得ないのが当時の朝鮮高校生たちの状況であった。
この頃、南朝鮮では政治的混乱と、生活苦から人々が「移民」として国を離れ、子どたちは「養子」として外国に「売られて」行った。在日同胞に対しても「棄民政策」で在日同胞を見捨て、同胞たちを受け入れることはなかった。
在日同胞たちへの差別政策、改善されない苦しい生活、悲惨な生活状態から抜け出したいという思い、「祖国の発展に寄与したい」等の思いは朝鮮への帰国を大きく促した。朝鮮高校生たちも祖国の大学で学び、祖国の建設に青春を捧げたいとの思いで朝鮮への帰国を希望する学生たちが増えて行ったのである。このように帰国への熱望がわき上がっていた1958年10月30日、「朝鮮への帰国実現を要請する東京朝鮮中高学校教職員学生大会」が行われ教員学生たちは帰国へのおもいを訴えたのであった。

この校内集会の20日後、朝日新聞(1958.11.20)に次のような衝撃的な記事が載った。
「ソ連領経由で北朝鮮へ/密航を企て漂流/東京の朝鮮学校生4人」との見出しで「19日朝、北海道ノサップ岬沖で漂流し救助を求めている4人乗りの伝馬船(約2t)を漁船が見つけ、花咲港に送り返した。根室海上保安署で調べたところ、4人はいずれも東京都北区上十条2ノ22朝鮮中高級学校の高等科2年生とわかった。4人は船を歯舞村温根元部落から盗んでおり『北朝鮮に帰るつもりで水晶島に渡ろうとした』と述べた。同署は4人を盗みと密出国の疑いで20日釧路家裁に送致する。」、として帰国失敗までの経緯を詳細に報じた。
この出来事は当時の在日同胞たちに大きな衝撃を与えた。全国の朝鮮学校の学生たちはこのことを話題にし、彼らの行動に共鳴し帰国運動を大々的に繰り広がる大きな契機となったのであった。
2006年8月、金安弘は当時の出来事を手記にして本校に送ってきた。次はその一部である。

「…1958年11月、朴博雄、高鉄民、康東熙らが学期末試験の勉強で家に来ていました。その時、誰かが地図をながめながら『知床から4㎞のところにある国後島はソ連領だ。国後島に渡りソ連人に我々の切実な心情を訴えれば朝鮮に送ってくれないだろうか』と冗談半分に話をしているうちに、いつの間にか『祖国に憧れ、帰国を熱望する在日朝鮮学生の心情を同胞や日本人に訴えよう!』と国後島から祖国に帰国する決心しました。それから1週間、北海道からソ連に行く準備をして11月14日、親にも、友だちにもこの計画を言わずに上野駅を出発し根室に向かいました。…この計画が失敗した後、警察に捕まり、私たちは少年鑑別所に送られました。同胞たちの力で1カ月後に家に帰って来ることが出来ました。…私たちは学校の運動場で全校生の前で『組織を無視し、個人英雄的な行動』を自己批判しました。」
この4人は朝鮮への帰国協定が締結された後、朴博雄は1959年12月、第1次船で、高鉄民、金安弘、康東熙は1960年2月、第7次船で帰国した。帰国後、朴博雄は金日成総合大学を卒業し南浦精錬所技師に、高鉄民は映画演劇大学卒業後に朝鮮中央放送委員会に配置、康東熙は金策工業大を卒業し工場の技師になった。
金安弘は金策工業大学在学中に柔道の国家代表選手となり、1963年にインドネシアで行われた国際大会で金メダルを獲得、1964年に東京オリンピックの朝鮮代表として日本に来た。(しかし当時陸上女子400、800mの世界記録保持者であった辛金丹選手の出場資格を剥奪するなどの措置に抗議して、朝鮮選手団は大会をボイコットした。)この時、朝鮮選手団は1964年10月8日に雨の中で行われた東京朝鮮中高級学校の運動会に参加した。金安弘はその後、朝鮮体育大学の教員、1988年から柔道の朝鮮代表チームのコーチとして女子柔道世界大会3連覇したケ・スニを指導した。また東京朝高の3年生たちが修学旅行でピョンヤンを訪れた際には後輩たちの前で講演もしている。

日本では帰国協定が締結されるまで、朝・日間には直接的な交通・輸送手段はなく、在日朝鮮人はどの国の「旅券」も所持してないうえ、貧困者が多く、当時極めて高額であった海外渡航費用をまかなえる者はほとんどいなかった。
総聯神奈川県川崎支部中留分会の帰国を決意する集会(1958.8.11)や東京朝鮮高校生4人の北海道からの「密出国事件」(1958.11.19)などを契機に帰国要請運動は大きく繰り広げられた。
東京朝鮮中高級学校でも外務省や法務省への抗議活動と抗議のはがきの送付、日本赤十字社に対する「帰国学生集団」の要請、「帰国実現青年行動の日」に学生20人の自転車での宣伝活動等帰国実現のための活動を繰り返し行った。
爆発的な勢いをもった帰国運動は多くの日本人の支持を受け、日本政府を帰国実現の決定に踏み切らせた。1959年2月13日、日本政府は「在日朝鮮人の北朝鮮帰還問題は、基本的人権に基づく居住地選択の自由という国際通念に基づいて処理する」と決定した。そして8月13日、インド・カルカッタで朝・日赤十字が在日朝鮮人の帰国協定に調印したのであった。
1959年12月14日、朝鮮に帰る975人がソ連船「クリリオン号」と「トボリスク号」に乗り新潟港を出発した。この第1次船には中級部9人、高級部14人の学生が乗っていた。
11月30日には帰国学生たちの歓送会が、12月6日には青山高校との「帰国歓送サッカー試合」が全校生参加のもと本校運動場で行われた。12月11日、帰国者を見送るため高級部3年生全員250人が新潟へ出発し、14日には新潟埠頭で帰国船を見送った。
その後一年間に東京朝鮮中高級学校の学生800人が帰国し、1961年3月には第64次船で高級部189人、中級部46人、合計235人が集団的に帰国した。帰国事業で9万8千人の帰国者のうち、学生は1万人であり、本校の在学・卒業生は約3千人である。

1959年4月、南日龍校長が就任した。
南日龍校長は東京朝鮮中学校の創立当時から「都立」時代に至るまで教壇にたち、1956年に創立された九州朝鮮中高級学校の初代校長になった。1959年4月~1969年3月まで校長を、その後「教職同」本部の委員長などを務めた。
1960年12月20日に発行された学校案内で南日龍校長は次のように記した。
「…本校の高等部3年生で、第1次船で帰国した崔英子さんの平壌音楽大学での楽しい学習についてのニュースが雑誌や映画で紹介され、また中等部2年生で帰国した高槿栄君の金日成首相に肩をだかれている写真は、あまりにもよく知られています。高君はこのときの感激を本校の学生にあてた手紙でいちはやく知らせてきています。…」 第1次船で帰国した高槿栄は帰国後、学校あてに次のような手紙を送ってきた。
「…12月21日、日本から帰国したわたしたちのために、ピョンヤン市で盛大な歓迎大会がもよおされました。…私は金日成首相に抱かれているのに気付きました。顔にほほえみを浮かべながら、大きな手でやさしく頭をなでてくださいました。…わたしはおもわず金首相の片腕にしがみついてしまいました。
…わたしの父は帰国の実現を4か月後にひかえた8月26日、治療もろくにうけられずにこの世を去りました。…わたしは父の遺骨をしっかり抱いて帰りました。清津で祖国の地を最初に踏むときも『アボジ!祖国につきました。一緒におりましょう』と心の中でつぶやきました。…」
高槿栄は帰国後、金日成総合大学を卒業し物理学教授、博士として金日成総合大学で教鞭をとり、2006年本校創立60周年に際して母校の後輩たち宛てに祝賀ビデオメッセージを送ってきた。
朝鮮への帰国はその後1967年12月まで行われ中断した。1971年に再開、70年末頃まで行われ終了した。その後、帰国者たちは祖国を往来するマンギョンボン号やサムジヨン号で帰国した。最後の東京朝鮮中高級学校の帰国者は1989年に帰国した黄哲成(高級部37期生)、黄徳満(高級部39期生)の兄妹である。黄徳満は現在、金日成総合大学生物情報研究室室長として研究を重ね、昆布と茎ワカメから粘質アミノ多糖類の一種であるフコイダンの抽出に成功。現在、朝鮮国内で普及されている健康食品「フコイダン」を開発した。

帰国第1船が新潟を出航して57年が経った。帰国した本校卒業生たちの年齢はほとんどが70才を越え高級部1期生たちは85才になった。筆者が会った卒業生は中学・高校時代をしっかり記憶しており、労働新聞などに東京朝鮮中高級学校の記事が載ると関心を持って読み、在日同胞たちに対する差別や弾圧のニュースには心を痛めるという。本誌5号で紹介した帰国した1期生たちが高校3年生たちに「いつも東京朝鮮中高級学校の卒業生の誇りを持って生きている。」と言った言葉を忘れることが出来ない。

模範教員

民族教育初の「模範教員」-康春子先生

朝鮮総聯の結成、朝鮮から送られてきた教育援助費、在日同胞たちの朝鮮への帰国の実現、朝鮮大学校の創立など1960年代、在日朝鮮人運動が全盛期を迎えるなかで民族教育も一大昂揚期を迎えた。朝鮮学校に通う学生たちが劇的に増加したのである。
1960年4月には高級部新入生が562人に及んだ。これにより高級部の学生数が初めて1,000人を超え、学生総数は2,800人に達した。その後1967年には高級部の学生数が2,000人を超えた。(ちなみに高級部の入学生数が一番多かったのは1965年4月に入学した高級部18期生の808人である。)
また、1962学年度から高級部の学生数が中級部を超えるようになった。これは1957年に三多摩第1、1959年東京第1を始め学区管下のほとんどの学校で中級部を併設したためである。

一方で朝鮮への帰国が実現した1960年ころから朝鮮の初級学校へ入学する学生が増え、日本学校に在学中の朝鮮の子供たちが数多く朝鮮学校に編入するようになった。 これに伴い本校では編入生たちのクラスを編成し、朝鮮語、朝鮮史などの民族科目の習得に多くの力を注ぐことになった。
1960年4月、中級部1年の女子編入班の担任を康春子教員が受け持つことになった。康春子教員は本校を1956年に卒業した6期生で、教員2年目の当時数少ない母校出身の女教員であった。

姜教員は朝高卒業後、洋裁の専門家になることを目標に洋裁学校で学んでいたのだが、本校で家庭科の教員が必要との要請を受け、1年間だけのつもりで教員になった。しかし2年目には編入班の担任を務めることになった。
姜教員が受け持った1年8班は女子編入生52人の学級であった。学生たちは乱雑で授業に身が入らず、質問をしてもほとんど答えが返ってこなかった。彼女たちは「朝鮮人は野蛮で、朝鮮は日本に比べあらゆるものが劣っている。」等、いわれない民族的劣等感にさいなまれ、金日成主席や共和国に関する話をすると「同じ話を何回も繰り返すのか。」と反発するのであった。

姜教員は学生たちに接しながら「この子たちは朝鮮民族として生まれたのに、朝鮮の言葉も民族の輝かしい歴史も知らない。この学生たちを立派な朝鮮人に育てるのが民族教育を受け教員になった私の義務である。子供たちのために全力を尽くそう!」と心に固く誓ったのであった。
姜教員は学生たちが朝鮮人としての誇りと自覚を持てるようにいろいろな話をした。
1960年、南朝鮮の人民による「4.19人民蜂起」が起きたとき、姜教員はデモに参加し犠牲になった、14歳の少女陳英淑さんが遺した「時間がないのでお母さんにお会いできないで、出掛けます。学生たちは、わが国の民主主義のために血を流します。お母さん!デモに出かける私を叱らないでください。……」というメモを、教室で涙を流しながら読み、そして祖国の分断の悲劇について熱く語った。
さらに、「4.24教育闘争」について、東京中高の沿革について、なぜ朝鮮人が日本に住んでいるのか、在日朝鮮人運動や総聯組織について語り、朝鮮の歴史と発展する共和国についても教えた。
しかし、入学当初編入班の雰囲気は暗く、欠席する学生も少なくなかった。出身校が違うだけでなく、学力差も大きく学生たちのまとまりもよくなかった。学級運営が壁に突き当たっていた。

姜教員は困難の前に心が折れそうになる度に「抗日パルチザン参加者たちの回想記」を読んだ。特に女性遊撃隊員金明花の『回想記』には多くの刺激を受け、「祖国解放のため、想像を絶する苦難を乗り越え一身をささげた遊撃隊員に比べたら、自分の苦労は何でもない。」と気持ちを奮い立たせた。
また姜教員は、学級の全学生を最優等生に育てた、ピョンヤンの若い女教師金寿福教員の『ある女教師の手記』を読みながら、「私はこの先生のように母のような心で子供たちと接しているのだろうか。」と自分を省みた。

このような過程で、姜教員は学生たちを立派な朝鮮人に育てる決意を一層強くし、朝鮮語の習得と教科の個別指導を粘り強く行った。すると姜教員の情熱を糧に学生たちは目を見張るほどに成長した。2学期からは欠席する学生が無くなり成績も向上した。そして学級の75%が年間優等・最優等生になるという、東京中高でかつてない成績を収めたのである。これは同学年度の中級部の年間優等・最優等生が42%であったことを見ても突出した高い成績であった。

さらに、このクラスは編入班であったが朝鮮語常用運動で模範となった。また、1959学年度から女子学生の第一制服に指定されたチマ・チョゴリの着用でも粘り強く教え諭し、2学期末にはクラス全員にチマ・チョゴリを着用させた。1961学年度からのチマ・チョゴリ着用完全実施の先駆者として大きな役割を果たしたのだった。
学生たちが2年生への進級をひかえた3学期のある日、姜教員は彼女たちに入学した頃に書いた作文をするクラスで朗読させた。これは自分たちが朝鮮人としていかに成長したかを確認すると同時に、日本学校に通っている朝鮮の子供たちのことを考えさせるためでもあった。

これが契機になり学生たちは意見交換を繰り返し、日本学校に通う朝鮮学生を編入させる学級決意文を作成するに至ったのであった。そして、日本学校に通う学生たち30人を学校に招き、時には個別に逢うなど、朝鮮学校の素晴らしさを熱心に伝えたのであった。姜教員はこのように、朝鮮人として成長した彼女たちの力を活用し、新たに20人の学生たちを朝鮮学校に編入させるという驚くべき成果をあげたのであった。

1961年4月、姜教員は帰国などで41人になった編入班に19人の学生を合わせ、2年生に進級した60人のクラスを受け持つことになった。
1961年5月に行われた総聯第6次全体大会で康春子教員は、1年間の教育経験を総括した討論を行った。教員3年目の若い女教員が総聯の全体大会で討論を行うことは異例なことであった。しかしこの討論は大会参加者たちに深い感銘を与えただけでなく、民族教育の水準向上とこの全体大会から始まった「模範教員集団運動」に大きな影響を与えることになった。

1961年6月17日付の朝鮮新報は3面の全面を使い「東京朝高、康春子教員の教育活動の経験」として報道した。この記事の小題目は「①未熟な新任教員と名前も知らぬ生徒たち ②祖国を教える努力を重ね ③分組協力を通して落第生を優等生に ④難関に突き当たる度に『回想記』を読み ⑤もっと勉強して祖国と父母に報いる ⑦優等・最優等75.4%、出席率97%に ⑧千里馬時代の戦士として模範教員集団運動に」である。

数回にわたり朝鮮新報に紹介された姜教員の教育活動は、在日同胞たちに深い感銘を与えた。1961年4月1日付の朝鮮新報に掲載された、「日本の学校から転入した学生たちをいかに教育したのか」の記事を読んだハワイ在住の同胞たち3人が新聞社に手紙とお金を送ってきた。その手紙には「民族教育のための姜教員の知恵、誠意、熱情を称賛し感激の涙を流さずにはいられなかった。」と書かれていた。

1961年7月に行われた在日朝鮮人教育活動家第1回大会においても姜教員の功績が高く評価された。そして、この大会で在日民族教育初の「模範教員」の称号が彼女に授けられたのであった。

さらに、1962年4月に姜教員が所属する中級部2学年教員集団は民族教育初の「模範教員集団」の栄誉を担い、1964年には社会科分科が「模範教員集団」称号を授与された。(康春子先生はその後も本校で教鞭をとり、女性同盟などで活動した。2011年中等教育65周年に際して東京朝鮮文化会館で行われた記念芸術公演では、朝鮮学校の教員経験者たちで歌った映画主題歌「人民教員」を合唱団の最前列で歌った。)

なお1963年5月には、南日龍校長を含む3人の在日朝鮮人教員に民族教育初の共和国「功勲教員」の称号が授与された。(南日龍校長は1948年本校に配置され、その後九州朝鮮中高級学校の初代校長、1959年から1969年まで本校校長、在日朝鮮人教職員同盟中央委員長などを歴任。)

師範科

東京中高に師範科を設置

朝鮮学校に通う学生数の急激な増加により、1960年から2年間に28校が新設され、805教室も増加した。このような状況は教員の確保が切実な問題として提起された。
本校高級部1期生朴鐘相ら6人が高校卒業直後に教員となったのを皮切りに、その後10年間、多くの卒業生たちが在日朝鮮人運動の歴史的要請に従って、正規の師範教育を受けることもなく日本各地の朝鮮学校に赴いたのであった。1960年4月には高級部6期生196人中49人が北海道から神戸に至る各朝鮮学校に配属された。
しかし民族教育の水準向上には、教員を体系的に養成することが切実に求められたのである。このような要請に基づいて1962年4月、本校と大阪朝鮮高級学校に師範科が設置された。師範科の学生たちは3年間にわたり教員になるための教育を受け、卒業後朝鮮初級学校の教員として配属された。師範科一期生は72人であり、5期生が卒業した1967年までの5年間に469人の卒業生を送り出した。
師範科には中学時の成績が良い学生たちが進学した。教員になるべく勉学に励み学校生活でも模範的学生たちであった。当時、全校の優等・最優等生の比率が40%に満たない時期に、師範科では目標を優等・最優等100%に定め、高い資質を備えた教員の育成に力を入れた。

1967年4月からは全国の朝鮮高級学校の3年生95人(師範科6期生)を本校に集め1年間で教員を養成し、初級学校に配属するようにした。3年後の1970年4月から師範科は茨城朝鮮初中高級に移された。本校の師範科卒業生総数は1期生から8期生まで821人にのぼった。
本校で教務部長、教育会会長を歴任した李三才氏は師範科第1期卒業生である。
また現西東京朝鮮第2初中級学校の李政愛校長は4期生であり、1966年師範科卒業後今日まで52年間、現役の教師として教鞭を執ってきた。李校長は卒業生や学父母、地域の同胞たちから絶大な信頼と尊敬を受け、2000年、西東京朝鮮第2初級学校(当時)の校長就任後学生数を飛躍的に増加させ、廃校の危機にあった学校を立て直しただけでなく、学校を「模範学校」の水準におしあげた。その功績が称えられ2006年、共和国「人民教員」、2010年「労力英雄」称号を本校出身の教員としては初めて授与された。民族教育の歴史で52年間も第一線で教鞭を執った教師は、李政愛校長だけである。

ちなみに、朝鮮学校の教員で初めて「人民教員」称号を授与されたのは横浜朝鮮初級学校、朴容徳校長(1983.8)であり、現在(2018.3)まで16人が「人民教員」称号を授けられた。

祖国研究室

「祖国研究室」開設と「回想記」学習

1960年4月15日、学生たちに祖国の歴史と文化、祖国解放のための抗日闘争を学習し愛国心を育む拠点として「祖国研究室」が開設された。
帰国事業が実現される中で学生たちは「祖国の発展に寄与したい」、「祖国をよりよく知りたい」との思いを深めていった。金日成主席歴史研究クラブ(部員15人、指導教員は朴慶植)が中心になり、朝鮮の近現代史や文化を学習する拠点として「祖国研究室」を運営する準備を始めた。
教員学生たちは「祖国研究室」に展示する朝鮮史掛図、朝鮮地図、南朝鮮模型図、抗日武装闘争戦績地図、普天堡市街模型図、朝鮮の国家機構図表、世界史年表、朝鮮の名節説明表などの祖国関連の展示物の作成や書籍、出版物の収集などを全校的に行った。
また全校生に「祖国研究室」設置基金を募り、616,500円を集め備品などを購入した。
朴慶植、孫晋瀅、林光進、権寿達、朴文国、金鐘斗ら教員6人、学生57人の設置準備委員たちによる1年間の準備を経て1960年4月15日、「祖国研究室」の開館式が行われた。開館式では準備委員たちによる研究報告が行われた。
研究報告では①金日成主席が創建した朝鮮人民軍の伝統 ②祖国解放戦争での「共和国英雄」たちの業績 ③朝鮮人民軍と資本主義国家の軍隊との違い ④抗日パルチザン闘争について ⑤3.1独立運動について ⑥金日成主席の幼少期について ⑦金日成主席の青年期について報告された。
「祖国研究室」はその後研究課題を ①金日成主席の革命伝統 ②朝鮮の社会主義建設 ③南朝鮮人民の戦いと祖国統一 ④在日朝鮮人運動とした。
当時「祖国研究室」は教員9人、学生61人が当番制で運営し、学生たちの集会や「抗日パルチザンたちの回想記」の学習会、社会科の授業などに使われ、映画上映、書籍、雑誌、新聞閲覧室としても使われた。また日本の高校生たちとの交流会の場としても使われた。
この「祖国研究室」活動は大きな反響を呼び、都内の朝鮮学校だけでなく大阪、北海道からも参観者が来たほどであった。
その後1968年4月には「金日成主席革命歴史研究室」が開設された。
「回想記」は、祖国解放を目指し日本帝国主義に反対する武装闘争に参加した遊撃隊員の回想を党歴史研究所が編纂し、1959年に第1巻が出版された。1960年ころから総聯の活動家や教員、同胞、学生たちのあいだで読書運動が広がり「回想記精神」というスローガンが生まれた。困難にめげず不屈の精神を持って献身的に活動する活動家、教員たちの精神的な源となった。
本校で「回想記」学習運動は1960年に始まり1961年度から計画的に行われた。
1961~62学年度 学校事業計画書」には61学年度主要課題を「愛国主義伝統の指導強化」とし、指定図書の一番目に「回想記」を挙げた。そして「抗日パルチザンたちの高貴な革命精神に学ぼう!」とのスローガンを掲げ「保守主義と沈滞、消極性と安逸性を克服し継続革新、継続前進しよう!」と呼びかけた。
前述した康春子教員が「回想記」学習を学生指導における困難克服の精神的な支えにしたように、教員たちは「回想記」を学習する度に、抗日遊撃隊員が祖国の自由と解放のために一身をささげたように、民族教育と学生たちの未来のために献身する決心を強くしたのであった。教員たちは学生たちに「回想記」を読むことを勧め、学習運動を繰り広げたのである。
そして「回想記」学習は、学生たちの学習と学校生活を大きく改善させ、世界観や人生観に大きな影響を与えた。このことは1962年2月、朝鮮新報に大々的に掲載された当時高級部1年の女子学生康英才(高級部14期生)さんの手記によく表れている。手記は「『回想記』に鼓舞され」との題で、学校の目標である優等・最優等50%を達成する過程で「回想記」に大きな力を得たことが次のように記されている。
学級の班長であった康英才さんは、勉強が遅れている友達の学習の手助けをする過程で苦悶すると、「回想記」の「人民を愛する心で」を学習した時に書いた感想文を思い出したのであった。「遊撃隊員たちは人民を愛し、尊敬し、彼らのためにすべてを捧げたので人々から愛される部隊、人民の真の部隊になったのである。私は祖国の統一を実現するため献身する在日朝鮮青年の一人として、クラスの学力向上のため全力を尽くし、友達を心から愛する気持ちで手助けをし、人が嫌がることを先頭に立って受け持つ人間になるため努力する。」と書いた。感想文を読み返し、「決めたことは最後までやり遂げよう」と決心した。そしてクラスの学力向上に力を注いだ結果、2学期の成績で優等・最優等81%を達成した。と手記に記されている。
1960~70年代に学生たちが「回想記」をよく読んでいたことは、苦しいクラブ活動の練習や試合の最中に「回想記精神!回想記精神!」と掛け声をあげ気合を入れていた姿にも端的に表れていた。
また「回想記」は多くの在日同胞たちにも読まれた。在日同胞社会で「回想記」読書運動が始まったのは1961年5月、総聯東京台東支部国際分会とされている。

集団暴行事件

朝鮮高校生たちに対する集団暴行事件が多発

1960年代に入り民族教育が急速に発展した一方、「韓日協定」の早期妥結を急ぐなかで朝鮮総聯と民族教育に対する政治的弾圧が悪辣に敢行され、朝鮮学校学生に対する集団暴行事件が1980年代にかけて多発するようになる。
以下に集団暴行事件のごく一部を列挙する。
1962年11月、神奈川朝高1年生の辛君とその同級生が法政二高の「二高祭」を見に行き、射撃部の展示室で展示品を見ていたところ、エアライフル銃を持った同校2年生により背後から頭部を銃床で乱打され、辛君が頭蓋骨骨折脳挫傷により死亡する事件が起きたのである。
1963年5月、東京朝高1年生5人が渋谷駅で国士舘高校生25人ほどに「おまえら朝高生か、なんで渋谷に来たんや!」と言われ、顔、横腹、足など、全身を殴る蹴るなどの集団暴行を受けた。そのうちの一人は、登山ナイフで右大腿部を刺され全治1か月の重傷を負う。
1966年2月、新大久保駅付近のガード下で朝高生4人を国士舘、中野電波、京王商、駿台高などの40人がビール瓶、角材で暴行を加え、2週間~2か月の重傷を負う。
4月、朝高生2人が代々木遊園、小田急新宿駅で国士舘生30人に角材、セメント塊で暴行され、1か月の重傷を負う。
1968年5月、朝高生6人を国士舘、中野電波高生60人が池袋駅から下落合まで連行し、竹刀、ヌンチャク、鉄棒で殴打、1名が2か月の入院、2名が2週間から1か月の重傷を負う。
1970年4月8日、十条駅に降りた高3の学生が数十人の帝京の学生に暴行を受け全治2週間の負傷を負う。
5月21日、総武線平井駅で、下校途中の朝高生5人に国士舘高校生13人が木刀、ヌンチャクなどでいきなり暴行を加え全治2週間のけがを負わせた。しかし小松川警察は怪我をした朝高生3人を警察に連行し、応急治療もせず2時間に及び調書を取った。その一方で加害者である国士舘生は1人だけ警察に連行しただけであった。警察は、急を聞きかけつけた学父母たちに「けんか両成敗」と加害者を庇護までした。
5月22日、下校途中錦糸町駅の便所付近にいた朝高生2人が、中央商業高校生ら20人に公園に連れていかれ木刀などで殴られ、顎の骨を折る全治6か月の重傷を負い入院した。
5月25日、国士舘生12人が山手線車内にいた帰宅途中の朝高生2人を見つけ、車内で「朝鮮おりろ、朝鮮ぶっ殺す。」と叫び殴りかかった。そして代々木駅で朝高生を引きずりおろし、殴る蹴るの暴行を行った後、学生服、ベルト、金銭などを奪った。
5月26日、朝鮮総聯韓徳銖議長は頻発した朝高生に対する集団暴行事件に関して記者会見を行った。会見では警視庁と警察に対して厳重に抗議する声明を発表した。また28日には北区公会堂に1,500人の学父母同胞が集まり、抗議集会が行われた。集会後要請文を持って首相官邸、法務省に抗議を行った。
ところがこのように民族差別をやめるよう抗議、要請を行っていた最中に警察は、総武線沿線にある日本の高校に「朝鮮高校の襲撃がある」との虚偽通報を行い、反朝鮮人感情を助長する謀略をめぐらせた。
6月4日、八王子駅で八王子工学院の学生30名が下車した朝高生15人を襲撃した。30人の警察官が駆けつけたが加害者の逮捕を要求する朝高生に対して、警察官はピストルを抜き「警察をなめるな。手を上げろ、撃つぞ!」と脅し交番に連行、いきなり首を絞め、殴る蹴るの暴行を行った。
1973年6月11日、新宿駅ホームで国士舘高校生60人が東京朝高生20人を3回にわたり襲撃し5人が負傷した。この事件は新聞に大きく報道された。
翌日12日には国士舘大学生20人が高田馬場駅で待ち伏せし、朝高生がいた電車の窓ガラスを割り「ニンニク臭いぞ!」などと叫びながら車内になだれ込んだ。そして雨傘で朝高生の胸を刺す、蹴るなど暴行。7人の朝高生が全治1週間の負傷を負った。
怪我をした朝高生たちが戸塚署に被害届を出そうとしたところ、警察は「学校ではどんなことを教えているのか。」「殴り返しただろう!」「ウソだろう!」などと2時間にわたり加害者のように扱った。またこの「高田馬場事件」で国士舘生は警察に「駅に着いたら反対側に朝鮮学校生がおり、殴りかかってきたので乱闘になった。」と虚偽の証言をした。
しかし、「高田馬場事件」を目撃した20歳の学生が朝日新聞投書欄(1973.6.22)に「国士舘暴力を目撃して」との題で次のよう書いた。
「先日の国電高田馬場駅で国士舘大生が朝鮮高校生を襲った。その車両に乗り合わせた目撃者の一人として、当時の模様をお知らせしたい。
僕の知る限り、襲った方は国士舘大生である。数人の学生が車内の朝鮮高校生一人を引きずり出しカサの柄で何度も頭を打ち、その後も無抵抗の朝鮮高校生を脅すように窓ガラスを割ったり、ののしり声をあげカサを投げつけた。
だから新聞が報じていた乱闘の表現は僕には理解できない。電車が発車するとき、国士舘大生がまた窓ガラスを割ると、乗客がけがをすると身をタテにして守ってくれたのも朝鮮高校生であった。
事件のあと、朝鮮高校生が僕たちに涙をためて言いかけた。『日本人にこの苦しみがわかるか』、『けんかをしかけたのは国士舘大生なのに、警察はわれわれにやめろ、やめろという』と。
その言葉を聞いて、平々凡々と暮らす僕たちより、もっと年若い彼らの余りにも厳しすぎる現実に同情しないわけにはいなかった。」
これら国士舘生の朝鮮高校学生に対する集団暴行事件は国会でも取り上げられた。
1973年7月4日、国会法務委員会で社会党副委員長赤松勇が「国士舘学生らの朝鮮人高校生に対する暴行事件は、右偏向教育の現れにほかならない。国士舘及び帝京などは昨年だけで36回朝鮮人高校生を襲っている。これは単なるけんかとは違う。」また、稲葉誠一議員が「朝鮮人に対する差別心がこのような事件の原因」、河上民雄議員が「日朝関係が正常でない一つの反映」などと質したのに対し、大平外相は「外交的側面がないとは言えない」と答えた。
一連の集団暴行事件は、日本政府の対朝鮮敵視政策を背景に助長された朝鮮人に対する差別感、誤った民族蔑視感によって起きたものであった。また警察は暴行事件の大半について厳正な捜査をせず、被害者(朝高生)を加害者扱いした許しがたい事件であった。
しかし当時帝京高校の川下寅夫先生を始めとする心ある日本人教師たちによって、1970年代~80年代にかけ朝鮮学校訪問や教員学生同士の交流が行われた。これらの努力により朝鮮学生たちと日本の高校生たちとのトラブルは激減し、1994年に朝鮮高校生たちがインターハイに参加出来るようになった後には集団暴行事件は起きていない。

新校舎

新校舎竣工

祖国への帰国事業が実現した1960年を前後し学生数は飛躍的に増加した。このような状況において学生たちを収容する教室を増やすため、また民族教育の質を向上させるためにも、新しい校舎を建てる必要性が高まっていた。
東京朝鮮第一初中級学校が1959年に朝鮮学校で初めて鉄筋3階建て校舎を建てたのを始め、60年代に全国の多くの朝鮮学校で新校舎が竣工された。本校でも1960年9月に鉄筋4階建て新校舎を竣工しようと55人の委員たちを選出し準備をしたが、実現できなかった。
しかしその後、新校舎建設を熱望する同胞たちの熱意を結集し、1965年4月に鉄筋5階建ての校舎が建設された。新校舎は地下1階地上5階、40の教室を備えた近代的なものであった。総工費は2億3千万円に及んだ。
1965年4月15日、新校舎落成式が運動場で同胞学父母教員学生ら4,500人の参加のもと盛大に行われた。式には総聯中央韓徳銖議長、李心喆副議長、盧炳禹副議長が参加した。韓徳銖議長が祝賀の挨拶を述べた後、新校舎建設委員会安商澤委員長が事業報告を行った。また、教員を代表して南日龍校長、学生を代表して趙一男朝高委員会委員長が決意を述べた。続いて総聯東京金成律委員長が建設委員たちに感謝状を授与した。なおピョンヤン師範大学を含む15校から祝旗と祝電が送られてきた。
さらに1970年3月には4階建の新校舎(2号館)が総工費3億円で竣工された。3月28日に行われた竣工祝賀式には総聯中央韓徳銖議長、李季白、金炳植副議長らとともに同胞、学父母、教員学生ら4,500人が参加した。韓徳銖議長が挨拶をした後、権聖在校舎建設委員長が事業報告をし、学生代表として李大行が決意を述べた。2号館校舎の竣工により、それまでモルタルの2階建て旧校舎で勉強していた高校1年生と中学生も鉄筋の新校舎に移った。(1965年に竣工された校舎は1998年に現在の校舎が竣工されるまで33年間使われた。)
またこの日、新校舎竣工祝賀式に先立って東京朝鮮文化会館(体育館・講堂)建設の定礎式が行われた。定礎式では一年後に総工費5億円で3,200名を収容できる地下1階、地上3階の体育・文化施設の建設する計画を明らかにした。(当時の5億円は現在の15億円に相当する)
それまで入学式は運動場で行われ、卒業式は日本の公会堂を借りて行わなければならなかった。映画を観るためには王子にある北区公会堂に行かなければならず、芸術クラブの発表会、文化祭なども日本の施設を借りて行わざるを得なかった。雨が降るとバスケット、バレーなどの部活動、体育の授業も行えなかったのである。
文化会館は学生たちが心から待ち望んでいたものであった。
しかし、文化会館の建設には多くの困難が伴った。権聖在氏が2号館の校舎建設に引き続き文化会館の建設委員会の会長になったが、1年以内に文化会館の建設費を準備することは並大抵なことではなかった。
結成された建設委員会で文化会館建設の重要性に関して論議が繰り返されたが、資金を集める目途が立たなかった。いかに民族教育のためだとはいえ、続けざまに建設費用を同胞たちに呼びかけることは容易なことではなかった。
この時、権聖在氏はこの困難を乗り越えるのにはどうしたらよいのか考えた。
「金日成主席と祖国の人民は在日同胞子弟のため、戦争の傷跡が癒えない苦しい時期にも教育援助費を送ってくれたではないか…祖国の支援があり、同胞たちの祖国と民族に対する熱い思いがあるのに出来ないわけがない。」
このように考え、建設基金として3千万円を寄付することを決心し夫人に相談した。夫人はためらうことなく「あなたの考えた通りにしてください。在日同胞に対する祖国の愛に報いられるならば、朝鮮学校に通う学生のためならば、店を一軒売ろうとも仕方ないではないですか。」と快諾した。
そしてついに権聖在氏は、文化会館建設の意義を確信し、ためらうことなく5千万円を寄付したのであった。(オイルショック前の1970年当時と2018年現在の貨幣価値は3倍以上の変動があり現在の1億5千万円に相当する。)
同胞たちは権聖在建設委員長を始めとする建設委員たちの情熱に鼓舞され、2号館校舎建設に続いて文化会館・体育館の建設にわれもわれもとこぞって参加したのであった。
こうして数多の困難を乗り越え1971年4月25日、東京朝鮮文化会館がついに竣工された。同日行われた竣工式の名称は「東京朝鮮中高級学校創立25周年記念体育館竣工祝賀式」とした。式典には総聯中央韓徳銖議長、金炳植、許南麒副議長と総聯の活動家、同胞、学父母、学生たち8千人が参加した。
午前9時、本校教員・学生たちによる体育館竣工記念式典が行われ、午前11時に総聯中央韓徳銖議長が体育館竣工のテープカットを行った後、参加者たちと体育館を巡回した。その後記念植樹を行った。(この時植樹された松は現在まで大きく育っている。)その後体育館で祝賀式が行われ韓徳銖議長が祝賀の挨拶を行った。
祝賀式では体育館建設に多大な貢献をした175人の同胞たちに、韓徳銖議長が感謝状を授与した。また体育館建設に寄与した同胞たちに総聯東京本部から感謝状が贈られた。祝賀式後には体育館竣工祝賀記念芸術公演が行われた。
実に本校は1965年から1971年までの6年間に1号館、2号館校舎と体育館までも建設したのであった。この大規模な建設をやり遂げた在日一世たちの力の源泉は何であったのだろうか。この時から半世紀が過ぎた今、在日一世たちが民族教育の発展のため流した血と汗、その消え去ることのない偉大な業績に対し、尊敬と感謝とともにそれらを受け継いで行く歴史的使命を心に刻まなければならないだろう。
前述のように体育館が出来る前まで先輩たちは、卒業式を日本の公会堂などを借りながら行った。現在のように「卒業公演」を行うこともなく、母校と後輩たちとの感動的な別れも出来なかったことを思う度に、在日一世たちに対する尊敬と感謝の念が湧き上がってくる。
現在、大体育館の緞帳は1975年5月、総聯結成20周年に際し祖国から送られてきた舞台幕「主体の陽光のもとに(주체의 해빛아래)」である。
竣工式を1か月後に控えた1971年3月23日、中級部24回、高級部21回卒業式が体育館で行われた。

1,2号館校舎と体育館建設、学校運営に多大な貢献をした同胞たちは以下の通りである。(職責等は1976年当時) 呉壬化(江戸川)、韓奉燮(台東)、김만유(西新井病院長)、림한묘(足立商工会顧問)、김창수(東京第4教育会副会長)、고복영(東京商工会副理事長)、량재교(葛飾商工会)、권성재(東京商工会会長)、류지은(東京体育協会会長)、김오체(葛飾商工会副会長)、김영식(在日蹴球団会長)、박태수(墨田商工会会長)、구차룡(東京商工会副会長)、변덕봉(中央江東商工会顧問)、김옥석(江戸川商工会副会長)、박경련(江戸川商工会会長)、박상문(東京商工会副会長)、윤인선(帰国)、서금안(女盟中央顧問)、박희주(新宿商工会理事長)、리오달(東京商工会副会長)、강녀경(女盟新宿副委員長)、윤관석(東京商工会副会長)、정근체(渋世商工会会長)、정영체(総聯渋世副委員長)、정복영(朝銀福島理事長)、안정부(総聯中杉分会長)、리중추(中杉商工会会長)、현종완(科協関東副会長)、량승호(荒川商工会会長)、김경친(台東商工会副会長)、김기호(台東商工会副会長)、김익삼(台東商工会会長)、김두진(台東商工会副会長)、신현순(台東商工会理事)、송두만(台東商工会理事長)、안상준(総聯東京財政運営委員長)、서성룡(太田商工会副理事長)、김정수(中杉商工会理事長)、안상목(北商工会副会長)、전금두(北商工会副会長)、리말옥(北商工会)、정상봉(豊練商工会副理事長)、리종태(商工連副会長)、김봉각(板橋商工会副会長)김、련화(女盟豊練)、조천제(太田支部顧問)、안홍렬(品川商工会)、리수섭(東京商工会顧問)、로진백(総聯太田副委員長)、최명근(品川商工会顧問)、김민찬(東京中高理事)、김기하(帰国)、김병석(東京商工会副会長)、림희수(朝鮮奨学会理事長)、김태규(総聯台東副委員長)、조두인(台東商工会)、좌승보(台東商工会)、김봉권(三多摩体育協会副会長)、김창식(三多摩商工会副会長)、전연식(三多摩商工会会長)、구괘만(朝鮮特産物会社会長)、김원분(女盟福島顧問)、조태암(群馬商工会会長)、손갑도(総聯長野支部委員長)、량종고(商工連合会長)、안상택(東京商工会)、남호광(千葉商工会副会長)、박학삼(葛飾商工会理事)、리도섭(民団団員)、김복찬(渋世)、정대면(港商工会会長)、박태옥(豊練商工会監査)、전주봉(太田商工会顧問)、방동팔(太田商工会副理事長)、김소택(中央江東商工会顧問)、최홍진(中杉商工会)、문춘식(北商工会理事)、송기원(北商工会)、유영식(東京第5教育会副会長)、윤령칙(荒川商工会理事長)、최복순(荒川商工会)、김익제(埼玉商工会顧問)、최상대(品川商工会監査)、강판금(総聯江戸川副委員長)、남성진(板橋支部委員長)、한재룡(文千商工会)、윤태용(文千副分会長)、김성태(港商工会)、김원희(台東商工会)、홍석민(台東商工会副理事長)、김옥여(台東商工会)、김귀현(台東商工会)、홍윤수(台東支部分会長)、주정덕(渋世商工会)、박명렬(渋世副分会長)、리정국(新宿商工会副理事長)、리종선(女盟東葛支部委員長)、정달환(茨城県商工会会長)、최종수(北海道商工会理事長)、정무진(長野県商工会会長)、김홍만(広島県商工会会長)、문영기(香川県商工会会長)、김상수(山口県商工会副会長)、박영기(新潟県商工会理事長)、정소영(総聯中央部長)、김종진(岩手県商工会)、정준홍(栃木初中級教育会会長)、박선이(千葉東葛商工会)、정상문(栃木支部委員長)、정수범(港支部副委員長)、성경학(豊練商工会顧問)、윤령화(葛飾商工会会長)、부원이(東京中高理事)、송원영(東京第1教育会副会長)、주원생(東京中高理事)、김인배(新宿商工会副会長)、김룡례(東京中高理事)、서광숙(東京中高理事)、리승범(東京中高理事)、김태생(荒川商工会)、량성현(豊練商工会理事長)、손두남(東京中高理事)、정용석(江戸川商工会)、김기성(東京中高理事)、신소남(東京中高理事)、박도준(中央江東商工会副理事長)、김웅석(東京中高理事)、홍성규(葛飾商工会副会長)、황우성(東京中高理事)、양만원(墨田商工会理事)、윤경하(東京中高理事)、유창근(東京中高理事)、장진한(東京中高理事)、김명곤(埼玉同胞)、리광우(台東商工会)、안충직(東京中高理事)、리종태(東京中高理事)、김동욱(東京中高理事)、전기용(東京中高理事)、윤형석(東京中高理事)、김태갑(三多摩商工会副会長)、김규항(板橋支部副委員長)、금석룡(板橋商工会)、정두률(板橋支部副委員長)、송만복(台東支部分会長)、김룡환(台東商工会)、김덕문(大田支部分会顧問)、권원옥(太田支部分会長)、오중련(大田支部分会長)、강중권(荒川商工会副会長)、김영환(東京中高理事)、정판룡(大田商工会理事)、리광선(北商工会理事長)、리병기(大田商工会会長)、남철규(板橋商工会副理事長)、전진식(東京中高理事)、김석기(葛飾支部副委員長)、김석종(荒川支部分会長)、김융문(東京中高理事)、리종우(江戸川商工会)、리기문(渋世商工会)、김주방(台東商工会)、김병양(新宿商工会)、홍현(新宿商工会理事)、리종우(江戸川商工会理事)、오계호(北商工会)、남종우(北商工会)、김제석(千葉県商工会副会長)、리종림(中杉渋副分会長)、조병용(総聯埼玉本部)、리기림(葛飾支部副委員長)、최창록(科協関東委員長)、리창해(葛飾商工会理事)、강경준(北商工会)、문달삼(荒川商工会理事)、강성종(荒川商工会副会長)、현규범(荒川同胞)、윤주찬(埼玉西部支部顧問)、김병석(埼玉商工会会長)、고운정(埼玉東部商工会)、김두석(板橋支部副分会長)、최원길(渋世商工会副会長)、안상태(栃木県商工会役員)、리석현(台東商工会理事)、지철규(大田支部分会長)、한승원(豊練商工会会長)、박차문(三多摩初中教育会副会長)、김귀남(三多摩中部商工会会長)、공형배(三多摩商工会副会長)、홍가용(埼玉県商工会副会長)、림정문(台東商工会)、장충삼(台東商工会)、신주범(台東商工会副理事長)、윤희수(台東商工会理事)、김용배(台東商工会理事)、리광우(台東商工会)、제석기(台東商工会理事)、리계화(女盟台東支部顧問)、리향구(台東商工会)、고두선(台東商工会)

以上のように校舎と体育館の建設を担ったのは権聖在氏らの在日一世たちであった。

その30年後、老朽化した校舎跡に現在の新校舎を建設(1998.4)したのは、一世たちの姿を見ながら学校生活を送った洪誠一氏(高級部17期、新校舎建設委員長)らの在日二世たちであった。時代とともに愛校事業の熱い血潮は綿綿と受け継がれるのである。

総聯10周年

総聯結成10周年慶祝大集団体操

5階建て新校舎が竣工された1965年は、朝鮮総聯の結成10周年を迎えた年であった。1965年5月28日、総聯結成10周年祝賀大集団体操(マスゲーム)「祖国にささげる歌」が駒沢競技場で行われた。大集団体操には朝鮮大学校並び、本校を始めとする関東地方の朝鮮学校の学生たち8,000人が参加した。
大集団体操は午後1時30分と3時30分の2回行われ、在日同胞をはじめ日本人、外国大使館員たち3万人が観覧した。
競技場で繰り広げられる壮大なマスゲームと瞬時に変わる背景板、グラウンドにはためく大朝鮮国旗。どれも日本で初めて見るものばかりであった。観衆の感動は大きな歓声と拍手で示された。同胞たちは、民族教育の素晴らしさを集団体操に参加する学生たちの姿から確信することが出来たのである。
集団体操は観覧者だけでなく、出演した学生たちにも大きな誇りと自信を与え、半世紀を越えた今でも強烈な思い出とし語り継がれている。
帰国した高級部18期生金明淑から集団体操に参加した時の思い出が綴られた手紙が送られてきた。
「練習の日々、朝鮮人の魂をしっかり持ち、気持ちを一つにして努力した甲斐が実り、大集団体操を大成功させ日本全土を揺り動かしました。私たちの小さな力を一つにした、各地の朝高生の団結した結晶体であった集団体操は壮快そのものでした。日本人には出来ないことだと思いました。私たち朝鮮人は組織力と団結力、民族性が強いという誇りを持っていたからこそやり遂げることが出来たと思います。ピョンヤンで高校時代の友達と当時のことを話すたびに集団体操に参加した時の苦労や感動が話題になります。集団体操に参加出来たことを私は今でも誇りに思っています。」
大集団体操の大成功の要因の一つが、背面で繰り広げられた背景板での絵や文字の大画面であった。初中級学校の学生たちが背景板(カードセクション)を持ち、客席側から指揮者が送る旗信号に従って絵や文字を変えてゆくのである。
当時東京第3初級学校6年、尹守枝さんの背景板作りの思い出を紹介する。
「忘れることが出来ないのは、集団体操、マスゲームのための『背景板』作りです。ご飯を煮込んだ糊を新聞紙の上に広げ、手で延ばすのです。しばらくして洗濯糊を使うようになりましたが、ご飯の何ともいえない臭いを我慢しながら、何枚もの新聞紙を貼り合わせました。一冊の厚さが20㎝位になるのですが、体が小さかったのでとても重く感じられました。…実際のマスゲームは第3を卒業して十条の東京朝中の一年生の時に行われました。私は編入生たちの世話を任されていたので、駒沢競技場のスタンドから見ることが出来ました。びっくりしました。驚きの連続でした。『背景板』作りの苦労が報われた思いがしました。」
大集団体操はその後、共和国創建17周年を記念して1965年11月と、金日成主席生誕60周年を記念して1972年に駒沢競技場にて二度行われた。その度に本校の学生たちは中心的な役割を担い集団体操の成功に大きく寄与した。
大集団体操を指導・指揮した朝鮮大学校金世炯に国旗勲章が授与され、本校では柳景煕、具永生、李大来、宋恵淑教員らに共和国国旗勲章、総聯中央表彰状などが授与された。
大集団体操でグランドになびかせた「大共和国旗」はその後本校の運動会の集団体操のメインとして引き継がれることになる。現在の「大共和国旗」は2013年に朝鮮で作られたものである。

創立20周年

学校創立20周年を迎えて

1965年に「韓日条約」が締結された。その直後日本政府は「文部省次官通達」を発すと、「外国人学校法案」を国会に提出し民族教育の弾圧、破壊に狂奔していた。
そのような状況下で本校は、創立20周年行事を民族教育の更なる発展の一大契機にするため力を注いだ。総聯中央の「在日朝鮮人中等教育実施20周年記念事業を全同胞的に組織することについて」の決定をうけ、本校では1966年8月に「中等教育実施・学校創立記念行事の準備計画」を作成した。
「計画書」には「①東京中高の20年間の歴史を総括し『模範学校』称号を得る運動を推し進める。②『学生たちの一番の任務は学科学習である』とのスローガンを掲げ教員たちの授業と学生指導の質を向上させる。③学生たちに民族教育の歴史を正しく教え、祖国愛を持ち学力を向上させ、母国語を正しく使えるように指導する。④学校の教育施設を文化衛生的に管理整備する」との4つの目標を立てた。
そして2学期に入り学校創立20周年記念行事の準備と大音楽舞踊叙事詩の練習を並行して行った。
学校創立20周年を二日後に控えた1966年10月3日、東京朝鮮中高級学校創立20周年記念祝賀大会が東京神田共立講堂で行われた。大会には総聯中央金昌鉉教育部長をはじめ同胞学父母、在校生ら2,400人が参加した。
大会では朝鮮普通教育省、金日成総合大学、平壌万寿台高等機械学校などから送られてきた21通の祝電が紹介され、南日龍校長が記念報告をした。南校長は「本校は、金日成主席の在日朝鮮学生に対する深い配慮と同胞たちの愛国心によって大きく発展し創立20周年を迎えた」と述べた。そして20年間に送り出した卒業生は朝鮮に帰国した3,000人を除いても9,280人に達すると報告した。また高級部サッカー部が現在30連勝中であり、1955年の創部以来301戦240勝という競技成果をあげたことを称えた。大会では祝賀文を高級部洪南基、中級部韓煕容学生が朗読し、金日成主席に送る感謝の手紙を朗読した。

※1966年は朝鮮がサッカーワールドカップに出場しベスト8になった年であるが、当時東京朝高サッカー部は全国最強のチームであった。全国高校選手権で優勝した習志野高校(1965年度優勝)、秋田商業(1966年度)を破り、国立競技場で行われた1966年サッカー日本リーグの開幕戦(三菱対古河)に前座試合に招待され、当時高校では最強と言われていた市立浦和高校(高校選手権3位)に3:0で圧勝した。この試合は全校生が観覧した。この時のサッカー部の主将は金英成(高級部17期生)であり、高校卒業後に在日朝鮮蹴球団に入り大活躍した金承煥、金永珍が在籍したこの年のサッカー部が朝高サッカー部史上最強と言われている。また1963年にサッカー部は40連勝を記録している。
また、1959年から1973年まで行われた東京朝鮮青年学生駅伝「2.8駅伝」でもサッカー部を中心とした本校の駅伝チームが大活躍した。「2.8駅伝」は飯田橋の総聯本部から浅草-葛飾-王子などを巡り飯田橋に戻る一般10区間、中学生20区間によるもので、都内の全朝青支部と朝鮮大学などが出場した。本校は常に朝鮮大学と競い合い1968年2月の第10回大会では本校が劇的な優勝を遂げた。

大会終了後、東京都内の朝鮮初中級学校生と本校学生による文化公演が行われた。
しかし、学校創立記念日を祝う祝賀行事が盛大に行われていたその時、学校内にある女子寮が放火されるという許しがたい事件が起きたのである。
祝賀大会を行っている隙を狙い、当時校内の敷地内にあった女子寮(チンダルレ寮、現在4階建て・旧校舎の位置にあった)が放火されたのであった。火事直後に学校の塀を乗り越え電柱を降りる男の姿を、校門付近にある写真屋の主人が撮影した。この写真は朝鮮新報にも掲載された。
放火事件の二日後、4人の学校代表が警視庁を訪れ、刑事部参事に放火犯を逮捕するよう要請した。代表たちは放火を疑わせる写真を提出しながら、火災が明らかに外部の者による犯行であることを指摘した。そして警察当局の火災の原因が学校にあるかのように調査していることに猛抗議した。この日、抗議には日本社会党国会議員稲葉誠一、自由法曹団上田誠吉弁護士、在日朝鮮人の人権を守る会田代博之事務局長が同行した。
10月24日、総聯中央尹相哲外務部長は警察庁刑事局捜査第一課長に放火事件は民族教育の破壊を目的とした陰険な策動であり、事件の真相究明及び民族教育に対する不当な干渉をやめるように強く要求した。
本校では10月5日、放火事件に対する学生たちによる抗議集会が行われた。
当時高校2年女子学生趙光淑がその時の状況を回想した手紙を紹介する。
「その日は学校創立20周年行事があった日だ。その頃は学校に講堂がなかったので神田共立講堂で行事が行われた。学校ががら空きだった隙を狙って学校内にあった女子寮・チンダルレ寮を放火したのである。
学校創立記念行事が終りまっすぐ家に帰ってきた私に朝高委員会から『学校が放火された。すぐに学校に来るように』との非常招集の電話がかかってきた。(当時、私は朝高委員会文化部副部長であった。)武蔵小山―目黒―池袋―十条と乗り継いで学校に着いてみると朝高委員、学年支部委員、学級班長、寮生たちが消火の後片付けをしていた。自分たちが生活していた寮と持ち物が焼けてしまった女学生たちは泣いていた。
私たちはその無残な状況を眼にして、哀しみと憤りで胸がいっぱいになった。朝高委員会洪南基委員長、黄龍根副委員長たちがありうる事態に対処するため、学校周辺警備担当者と時間表を作成した。緊迫した状況のなかで迅速に準備をすすめ学校を反動たちから守るため『徹夜戦闘』に突入したのであった。私の任務は運動場横の警備であった。
後日、学校近くの写真屋さんの主人が撮った、塀を乗り越えて逃げようとする犯人の写真を見たとき激しい憤りを感じた。」
(当時、本校には北海道から九州に至る地方出身の学生たち約300人のための寄宿舎があった。学校内に男子寮の「金剛寮」、「青雲寮」、女子寮の「チンダルレ(つつじ)寮」があり、北区西が丘に「牡丹寮」があった。寄宿舎は1970年に廃止された。
また、学校警備のため宿直・日直は教員たちが行っていたが、1960年代には高級部の男子学生たちが学級ごとの当番制で「保衛(宿直)」を担当した。「保衛」は6,7人が守衛室に泊まりながら夜中に数回校内を巡回した。冬休みなどには4、5人の女子学生が日直を担当した。「保衛」の任務の分担は朝高委員会が行った。)
10月4日、ピョンヤン学生少年宮殿で「在日朝鮮人中等教育20周年記念ピョンヤン市青年学生夜会」が催された。夜会には祖国統一民主主義戦線議長団、金天海、李克魯、高準澤議長らと尹基福普通教育相、金日成総合大学副総長らが参席した。夜会にはピョンヤン市の学生、教員たちと日本から帰国した同胞学生らが参加した。
金天海祖国戦線議長は1920年代に渡日し、1935年に「共産主義を宣伝した」として逮捕され刑務所に収監された。祖国解放の日まで非転向を貫き1945年に結成された朝鮮人連盟では最高顧問として活動し、1950年5月に朝鮮に渡った。金天海は1948年10月に行われた東京朝鮮中学校の第1回卒業式、高等部入学式に来賓として参加し、卒業式の記念写真には最前列で韓徳銖委員長の隣で写真に収まっている。
夜会では1955年に帰国した本校の元校長であり、帰国後外国文出版社で活動していた林光澈の体験談が参加者たちに強い感銘を与えた。林光澈元校長の話に参加者たちの嵐のような拍手がいつまでも鳴りやまなかったと朝鮮中央通信は伝えた。ピョンヤンで東京中高の創立20周年行事に参加した林光澈、金天海は感慨無量だったと思われる。(林光澈は1946年本校創立時の教務主任であり、本校の校歌作詞者でもある。)
夜会では学生たちが舞台に上がり、韓徳銖議長が作詞した「わが誇り限りなし」、「朝鮮大学の歌」などを歌った。また「ある女教師の手記」でその名が知られている「労力英雄」、「共和国人民教員」チャンジョン中学金寿福校長が在日朝鮮教員たちに祝賀の挨拶を述べた。
10月5日には政府機関紙「民主朝鮮」が「在日朝鮮人中等教育実施20周年を祝う」との社説を掲載した。
翌10月6日、在日朝鮮人中等教育実施20周年中央大会が日比谷公会堂で行われた。大会には韓徳銖議長、李心喆、李季白副議長、金炳植事務局長をはじめとした幹部が参加した。また、共和国功勲教員である南日龍校長が主席壇に迎えられた。
大会では韓徳銖議長が報告を行い、民族教育の発展に寄与した朝鮮大学校李珍珪副学長と本校金如斗教員をはじめ19人に「20年勤続賞」、三多摩朝鮮第一初中級学校金錦順教員をはじめ40人に「10年勤続賞」の表彰状と記念品が授与された。

中等教育20周年

中等教育実施20周年記念

大音楽舞踊叙事詩公演
1966年12月13~14日にかけて、3,000人の学生と芸術家たちによる「在日朝鮮人中等教育実施20周年記念大音楽舞踊叙事詩」が信濃町の東京体育館で行われた。5回にわたって行われた公演を、同胞36,000人のほか、日本を含めた14か国13,000人が観覧した。
大音楽舞踊叙事詩「祖国の陽光のもとに(조국의 해빛아래)」は固定大合唱団1,000人、管弦楽団200人、舞踊団2,000人で構成された。
叙事詩は「わが祖国(내나라)」の大合唱、そして初級部生たちの合唱と趙光淑(高級部18期)、金京順(19期)の二重唱「この世に羨むものはない(세상에 부럼없어라)」から始まった。そして、舞踊「苦難の行軍(고난의 행군)」、「銑鉄は流れる(쇠물은 흐른다)」と大合唱「われらは朝鮮の子(우리는 조선의 아들딸이다)」、「万豊年(만풍년)」などへと続く1時間50分の公演であった。
本校の学生たちは固定合唱団で17曲を歌い、舞踊(男子舞踊を含む)は「千里馬の国」、「万豊年」、などを担当した。ブラスバンド部、民族器楽部の学生たちは楽団に属した。
学生たちは夏休み頃から出演するパートを決め、1年前の大集団体操に劣らない練習を重ねた。二学期に入り本格的な練習に突入した。
当時、体育館がなかったので練習は教室、食堂、運動場のスタンドなどで行い、朝鮮大学校で合同練習も行った。
東京歌舞団の金黄英団長が合唱の指導に来たこともあった。合唱に出演した学生たちが苦労したのは「青山の原に豊年が来た(청산벌에 풍년이 왔네)」の歌をマスターすることであった。現在ではこの「青山の原に豊年が来た」の歌詞と旋律は耳になじんだ歌であるが、初めてこの歌を習う学生たちにとっては歌詞が多く、音域も広く、何よりも速い速度で歌わなければならなかったのでサッカー、バレーボール、バスケット部などの男子学生たちは苦労したものだった。
金剛寮の一階にあった食堂に合唱台を作り繰り返し練習をした。練習は大変であったが、学生たちは一年前、駒沢競技場の大集団体操に送られた嵐のような拍手を思い出しながら練習を重ねた。
舞踊「万豊年」には舞踊部の女子学生とともに男子学生が多数出演した。ほとんどがサッカー部などの体育系クラブの学生であったが、舞踊部の金英淑指導教員の厳しい指導の下、完成度が高い作品に仕上げ、合唱と舞踊「万豊年」は大音楽舞踊叙事詩の作品のなかで半世紀にわたり受け継がれる名作となるのである。また「万豊年」は東京中高十八番の舞踊の出し物になり、今日に至るまで高級部の卒業公演のフィナーレを飾る農樂舞として踊り継がれている。
金英淑教員は民族教育での舞踊指導の功績が高く評価され、教員としてはじめて「功勲芸術家」の称号を授けられた。
大合唱「われらは朝鮮の子(우리는 조선의 아들딸이다)」は中等教育・東京中高創立20周年に際し韓徳銖議長が作詞し「金日成将軍の歌」の作曲者である金元均が作曲した。この歌は当時「東京中高の第二の校歌」と言われ今日まで歌い続けられている。半世紀後の学校創立70周年記念公演では、学区管下の初中級学校の学生たち600人が合唱した。
大音楽舞踊叙事詩「祖国の陽光のもとに」の公演形式、「万豊年」をはじめとする多くの出演作品は、朝鮮公演された大音楽舞踊叙事詩「栄えある我が祖国(영광스러운 우리 조국)」を手本にし、構成:許南麒、音楽:韓明宇、崔東玉、按舞:任秋子、舞台監督:徐黙ら在日朝鮮人芸術家たちが日本の実情に合わせ創作したのであった。
大音楽舞踊叙事詩の成功は、金日成主席の配慮のもと、祖国芸術家たちの支援を受けた在日朝鮮人芸術家と、朝鮮学校の教員学生たちの熱意と努力によってなされたのである。
公演の音楽部門を担当し、1965年に在日朝鮮人で初めて「功勲芸術家」の称号を授与された崔東玉(作曲家、本校校歌作曲者)と、「功勲俳優」任秋子(中央芸術団舞踊部長、東京朝高5期生)は朝鮮新報に次のような所感を述べている。
崔東玉は「内容があまりに膨大で、練習場も違い進行状況を把握するのも大変でした。しかし合唱団の学生たちが『われらの思いを見たければ私たちの姿と歌を見よ』というスローガンを掲げ、叙事詩の思想芸術性を把握することに力を注ぎました。練習密度を上げるのに各校の教員たちと朝青の指導員たちが頑張りました。合唱部門では朝鮮大学アルト4分組、バス2分組、東京朝鮮中高ソプラノ2分組、テナー4分組の模範が印象的でした。」
また任秋子は「沢山の舞踊手が必要な今回の公演は最初から手に余る企画であり、舞踊の基礎動作も知らない学生を相手に編成しなければならなかったので大変でした。歩きながら、電車に乗りながらも学生たちが踊る姿が頭の中を占め、電車を乗り越してしまうことも度々ありました。練習場がない多くの学校で、学生たちは冷たい風に吹かれながら練習していました。苦しい中でも誰一人やめようと言わず練習していた、その姿を思い出すと涙がこぼれそうになります。」(任秋子先生は中等教育40周年の公演で東京中高男子学生舞踊「建設の踊り」を指導した。)
一方で公演の成功のため、朝高委員会は中等教育20周年を①母国語と学力向上②大音楽舞踊叙事詩の成功③高3の卒業後の進路④教育権の擁護と日本の高校生たちとの友好親善などで大きな成果を収め迎えようと呼びかけ、「20周年記念行事学生実行委員会」を発足させた。
朝高委員会は、学生たちに公演の意義を訴え、心を一つにするために精力的に活動し大音楽舞踊叙事詩公演の成功に大きく寄与した。

当時の実行委員会の構成は以下の通りである。
委員長:洪南基、組織担当副委員長:黄龍根、宣伝担当副委員長:昔勝守、合唱パート別責任者:金光弘、朴鐘雲、盧民愛、卞基善、男子舞踊:李完奎、女子舞踊:金英姫、農学舞踊:趙誠鉉、民族楽隊:趙順姫、吹奏楽隊:鄭賢次、後方供給:韓斗現、高3不出演者担当:金考明、高2:金文吉,高1:李名裕

大音楽舞踊叙事詩は長編記録映画『祖国の陽光のもとに』として製作され公開された。この映画を鑑賞された金日成主席は「総聯が立派な芸術作品を創作した。公演も記録映画も素晴らしい。大きな成果をあげた製作スタッフと、公演に参加した学生たちを高く評価する。」と賛辞を惜しまなかった。
1967年6月1日、大音楽舞踊叙事詩「祖国の陽光のもとに」に朝鮮芸術部門の最高栄誉とされる「人民賞」が授与され、本校に表彰状が贈られた。
また、1967年3月11日~15日にかけて大阪では、教育援助費・奨学金送金10周年を記念する大音楽舞踊叙事詩「祖国と領袖に捧げる歌」が公演された。関西地方の朝鮮学校の学生たちが出演するなか、東京公演で高い評価を受けた「万豊年」には本校の舞踊部が出演した。

祖国訪問

1972年、サッカー部の祖国訪問

1965年「韓日条約」締結を機に日本当局は民族教育差別を目的とした「外国人学校法案」を7回も国会に提出した。しかし、活動家や同胞たちが粘り強く闘った結果、1972年には廃案に追いこんだ。これは民族教育をまもる闘争で勝ち取った大きな勝利であった。
1972年1月、冬季札幌オリンピックに参加した韓弼花選手ら朝鮮代表団を本校体育館に迎え大歓迎集会が行われた。祖国の息吹を肌に感じながらその3か月後金日成主席生誕60周年を迎えることになる。
1972年4月1日、この年から教科書の無償配布が実施され、入学式で新入生全員に手渡された。また1950年の都立の時代から選択教科になっていたロシア語を廃止し、1972学年度から外国語は日本語と英語が必修科目となった。
4月15日に金日成主席生誕60周年祝賀大音楽舞踊叙事詩「祖国の陽光のもとに」が東京朝鮮文化会館で、5月30~31日に駒沢競技場で大集団体操「領袖に捧げる栄光の歌」が行われた。

このような一連の金日成主席生誕祝賀行事が終わった6月7日、朝鮮から校長あてに一通の招請状が届いた。

「東京朝鮮中高級学校へ
祖国の青少年学生たちは夏休みを利用して多彩な体育活動を行います。
朝鮮社会主義労働青年同盟中央委員会は、夏休みの期間(7月20日~8月31日)に在日朝鮮青少年学生たちと祖国の青少年学生たちとともにいろいろな体育行事に参加することを願い、東京朝鮮中高級学校のサッカー部の部員と引率教員を招請します。
1972年6月7日 朝鮮社会主義労働青年同盟中央委員会」

時を同じくして、横浜朝鮮初級学校の音楽舞踊部にも祖国から招請があった。歓喜に湧いている間もない6月12日、両校は前尾繁三郎法務大臣に再入国許可申請をした。
1965年まで在日朝鮮人には祖国を往来する権利がなかった。1959年に帰国の権利を獲得した時から祖国往来の自由を求める運動は始まった。1964年には祖国への自由往来を求める東京―大阪間徒歩行進に多くの在日同胞が参加した。このような闘争のなかで1965年12月、江東区に住んでいた共和国出身の老夫婦に故郷への訪問が実現された。これ以降69年に8人、70年に6人の同胞たちの祖国訪問が実現し、祖国自由往来の機運が高まっていったのであった。1970年に東京第1の民族器楽部と東京第7のサッカー部が祖国から招請を受けたが、日本政府はこれら学生、教員たちの再入国を許可しなかった。このような状況でも1972年、金日成主席生誕60年に際して申請した、李季白副議長ら6人の総聯活動家の祖国訪問が実現したのはまさに画期的なことであった。
この流れに沿って東京中高の学生教員の祖国往来実現のために「日朝議連」をはじめとして各政党や社会団体、報道機関にも呼びかけを盛んに行った。
習志野高校サッカー部の西堂就監督はスポーツ関係者たちに呼びかけ、新聞等で日本政府が再入国を許可するように訴えた。1966年に全国優勝した習志野サッカー部とは定期戦をおこなっており、1971年には朝鮮を訪問し親善試合を行っていた。習志野高校をはじめ多くの高校生や教師たちが支援をしてくれた。
その後7月4日、歴史的な「7.4南北共同宣言」が発表され、同胞社会が沸き立つ中で学生たちの祖国訪問が許可されたのであった。

本校は団長韓明洙校長、監督金明植、引率教員周永虎、具永生、学生責任者鄭福永、選手は高3:宋南日(主将)、高正義、金慶一、金在鉄、金学新、金恒満、柳明斗、李済華、成炳茂、韓在能、呉泰永、任英文、高2:梁峰春、申有慶、崔千培、洪光洙で高3李成裕、高2裵哲男、沈植、兪和らが同行した。

横浜朝鮮初級学校は朴容徳校長を団長として25人で編成された。

そしてついに7月26日、教員、学生、同胞ら1500人が見送るなか初の学生訪問団は羽田飛行場を出発した。歓送会には日朝友好議員連盟会長久野忠治ら国会議員、日教組部長、東京都知事代理、横浜市長代理、日本体育協会山口久太理事、習志野高校校長などが参加した。歓送会で金炳植副議長が挨拶をした。
27日、ソ連ハバロフスク飛行場から朝鮮航空の特別機に乗り11時30分に順安飛行場に到着した。飛行場に集まった6,000人の群衆の歓迎を受け、学生と引率教員は共和国旗を振り「万歳」を叫びながらタラップを降りた。また飛行場には最高人民会議楊亨燮議員、金萬金副総理,社労青委員長ら幹部が出迎えた。さらには飛行場から宿舎まで22万人のピョンヤン市民が沿道に出て祖国を訪問した学生たちを歓迎したのであった。
28日にピョンヤン市の歓迎宴会、29日にピョンヤン大劇場で行われたピョンヤン市学生少年歓迎集会はテレビ中継された。
祖国訪問期間中に開城市、咸興市、恵山市、元山市を訪問した間に計53万人の歓迎を受け、その度に群衆集会が行われた。
サッカー部は7月30日モランボン競技場(現金日成競技場)でマンスデ高等学校と試合をした。結果は3:0の勝利であった。祖国訪問中行った試合の結果は1勝2敗1引き分けであった。
横浜朝鮮初級学校の芸術公演は8月1日と10日にピョンヤン学生少年宮殿で行われた。この公演を金一、崔賢、鄭準澤、楊亨燮、金萬金らの祖国の幹部と労働者、教員、学生らが観覧した。芸術公演は祖国滞在中地方公演を含めて7回行われた。
学生たちが夢のような日々を送っていた1972年8月18日、金日成主席は貴重な時間を割いてピョンヤン学生少年宮殿で学生たちと会われた。午後5時主席が乗られた乗用車が宮殿の正門に止まると、出迎えた教員学生の「万歳!」の歓声がとどろいた。主席は挨拶する韓明洙校長の手を握りながら「子供たちを連れてくるのに大変だったでしょう。祖国にきて不便なことはありませんか?」と温かい言葉をかけられた。
金日成主席は二階の休憩室で教員学生たちに会われ「君たちは何歳なのか、アボジ、オモニは元気なのか、サッカーの試合はどうだったのか、芸術公演は何回行ったのか。」と尋ねられた。学生たちが答えると主席は、学生たちが話す朝鮮語が正確で上手だと喜ばれ、総聯が民族教育をしっかり行っていると褒められた。
主席は「私は日本からこのように大勢で祖国を訪ねてきたことを大変うれしく思います。君たちは皆健康そうなので安心しました。そして元気な姿で祖国に来たことを大変うれしく思います。」と述べられた後、在日朝鮮青年学生たちの生活の指針と学習について次のように続けられた。
「君たちは第一に、祖国を愛さなければなりません。我が祖国はどのような祖国ですか、我が祖国は社会主義祖国です。君たちは朝鮮民主主義人民共和国の公民たちです。君たちには社会主義の祖国があります。だから社会主義祖国を愛さなければなりません。そのためには社会主義愛国主義思想を学ばなければなりません。
第二に、国を愛するだけではいけません。自分の党と人民も愛さなければなりません。そのためには我が党の思想をもっと知らなければいけません。我が党の思想は主体思想です。…君たちは立派な革命家、愛国運動の継承者にならなければなりません。これが私の願いです。」
この日、主席は横浜朝鮮初級学校の音楽舞踊公演を観覧された。主席は公演後舞台に上り、祖国訪問団と記念写真を撮られた。
いつの間に日が沈み、予定の時間は過ぎていたが、主席は子供たちと別れるのが惜しいと話されながら、彼らを再び2階の休憩室に連れて行かれた。
主席は「公演が素晴らしかった。歌も、演奏も、詩の朗読も、踊りも大変良かった。」と公演を高く評価された。
主席は、公演の劇中に、日本学校に行った学生がまた朝鮮学校に帰ってきた場面を見て涙を流したと話されながら、学生たちに視線を移し「言葉は民族の標徴です。言葉が違えば民族を成すことが出来ません。朝鮮人はどこで暮らしても朝鮮語を話し、朝鮮の文字を使わなければいけません。民族の固有の言葉と美しい三千里錦繡江山を持っている朝鮮人が日本人に同化しては絶対にいけません。君たちは、一が十、十が百、百が千を引き寄せる方法で『朝鮮人を作る運動』をしなければなりません。」と教えられた。
主席は教員学生たちと別れながら、文字盤に主席の名が刻まれた腕時計を一人ひとりに手渡し、横浜初級学校の学生たちに「この時計は記念として持っていなさい。ベルトが長いので合わないかも知れないが、しっかり保管して大きくなってはめるようにしなさい。」と慈愛に満ちた言葉をかけてくださった。
予定の時間は大幅に遅れていたが、主席は韓明洙校長に「白頭山、金剛山にも行き映画など観たいものは全部観て行きなさい。学生たちは喉が枯れているようなので公演を控えるように。」と話された。
このように長い時間を過ごし、主席が乗った乗用車が、学生たちの熱烈な歓声を受けながら学生少年宮殿を出発しようとした時、主席は車から降りられ再び学生たちの方に歩いてこられた。そして韓明洙校長に、日本にどのように帰るのかと尋ねた。韓明洙校長はマンギョンボン号の船便で帰ることになっていると答えた。
すると主席は「子供たちが船で帰ると船酔いもするし疲れます。飛行機で帰るようにしなさい。」と最後まで学生たちの健康を配慮されたのであった。
訪問団は8月9日に信川博物館、11日開城市と板門店、13日咸興市、26日元山市を訪問し、29日には金剛山に登った。
8月22日には飛行機で恵山市に向かった。朝高サッカー部は恵山競技場で恵山軽工業学校と試合をし、横浜初級学校の学生たちは恵山市歌舞劇場で6回目の公演を行った。
さらに8月24日に普天堡、靑峰宿営地などを踏査し25日には白頭山に登った。
9月2日、金日成主席は万寿台議事堂の宴会場で行われた、ピョンヤン市学生少年たちと訪問団との交流会に参席された。
主席は訪問団の学生たちに「別れをさびしく思わず、日本に帰って勉強をしっかりし、社会主義祖国を愛し、総聯組織の周りにより強く団結し、民主主義的民族権利を守るため闘うことが重要です。」と話され、続けて「我が革命はまだ終わっていない。青年達は代を継いで革命を継続し、少年団員たちは社会主義建設の継承者になるために常に準備しなければならない。」と教えられた。
この日、学生たちの「この世に羨むものはない」の歌から始まった交流会で、主席は学生たちが歌を歌うたびに大きな拍手を送られた。中でも訪問団学生責任者・東京中高学生委員会委員長鄭福永が詠んだ「白頭山の頂に立ち」の詩は参加者たちに大きな感動を与えた。
また、訪問期間中に作られた歌「祖国を離れうたう歌(조국을 떠나며 부르는 노래)」を訪問団全員で合唱した。学生たちは涙を流しながら、祖国に対する感謝をこめて熱唱した。その姿を見た主席も、参加者も感動の涙を流した。最後に参加者全員で「主席の万寿無彊を祝願します」を合唱して交流会は終わった。
9月7日、訪問団はハバロフスクを経由し、8日午前、羽田空港に到着した。空港には総聯中央教育部長、東京中高と横浜初級学校の父母と教員たち、東京と神奈川の同胞たち、横浜山手中華学校と習志野高校の教員たちなど千余名が出迎えた。
訪問団は帰還報告集会が行われる朝鮮文化会館に向かった。午後1時半、校門に到着した訪問団は、韓徳銖議長をはじめ同胞たち、また日本を訪問していた朝鮮科学技術協会の代表団たちの熱烈な歓迎を受けた。
そして午前中に行われた共和国創建24周年慶祝大会に引き続き、「祖国を訪問した東京朝鮮中高級学校サッカー部と横浜朝鮮初級学校音楽舞踊団の報告会」が行われた。

集会では総聯中央金昌鉉教育部長が報告をし、学生を代表して学生責任者鄭福永が帰還報告をした。集会では横浜朝鮮初級学校の学生たちによる歌と踊り「金日成主席に感謝を捧げます」が上演された。

報告会は9日に神奈川、10日に関東地方、12日東北、13日東海、14日大阪、15日兵庫、16日京都、19日広島、20日下関、21日福岡、計11回にわたり行われ学生14,000人、同胞9,000人が参加した。
報告会に参加したある同胞は「今までも金日成主席の愛と配慮に涙を流してきたが、今日のように涙を流したのは初めて」と語り本校高級部3年の女学生は「私たちは、金日成主席に逢えるその日を夢の中でしか描くことが出来なかったのに、同級生の友達がかなえた夢のような現実に主席の在日同胞たちへの深い愛を感じる。」と語った。

金日成主席が1972年8月18日に本校の教員学生たちに「在日朝鮮青少年たちは社会主義祖国を熱烈に愛さなければならない」と話された「8.18教示」を胸に刻み、在日朝鮮青少年たちへの限りない愛と配慮を後世に伝えるため、本校の中庭に「1972年8月18日教示記念碑」を建立した。
「記念碑」除幕式は1974年10月10日に行われた。除幕式には韓徳銖議長、李珍珪副議長、韓明洙校長と祖国を訪問したサッカー部員、横浜朝鮮初級学校朴容徳校長と芸術団の学生たち、総聯の活動家学父母学生らが参加した。式では韓明洙校長が挨拶をし、韓徳銖議長が記念碑の除幕をした。学生代表として本校金春愛(高級部27期生)と横浜初級朴成文が決意を述べた。

民族教育の激動の60年代と70年代を経て、民族教育は80年代から主体性を堅持しながら日本定住を前提とした民族教育の時代へと飛躍して行く。

分岐点

民族教育の大きな分岐点

1972年夏の高級部サッカー部の祖国訪問は帰国を前提とした教育から主体性と民族性を堅持しながら日本定住を前提とした民族教育、祖国の発展と統一に寄与できる人材育成を目的とした民族教育へと発展する大きな分岐点でもあった。
1959年12月から始まった朝鮮への帰国は1967年12月に日本政府により中断され、1971年5月に再開されたが帰国する同胞は少なくなっていた。
在日同胞たちは祖国往来の自由を勝ち取るため、「祖国往来東京―大阪徒歩行進」(1964年3月16日大阪を出発―4月21日に東京到着)や共和国創建20周年に際して祝賀団の再入国を拒否したことに対する法廷闘争が大々的に行なわれた。「再入国裁判」は1,2審とも勝訴したが最高裁では敗訴した。このような祖国往来運動の高まりのなかで1965年に二人の朝鮮北部出身者の再入国が初めて実現し、1972年には金日成主席生誕60周年に際した李季白総聯副議長ら総聯活動家たちの祖国訪問、東京朝高サッカー部と引率教員の祖国訪問などが実現され、翌年からはより多くの総聯の活動家、同胞たちが祖国を訪問した。
また朝鮮代表団の日本入国も実現し始めた。1963年2月に軽井沢で行われた世界スピード・スケート選手権大会に参加した選手団が初めて日本に入国した朝鮮の代表団であり、64年東京オリンピック、71年世界卓球選手権大会、72年札幌冬季オリンピック、73年万寿台芸術団日本公演をはじめとした祖国の代表団の日本訪問は在日同胞と祖国の繋がりを深め、祖国を身近に感じるようになった大きな出来事であった。
一方でこの当時、在日同胞社会では世代交代が促進され、1974年には二世が75%を占めた。日本での生活基盤が確立され始め、日本定住への意識が主流をなすこととなった。
1970年代、在日同胞の世代交代や祖国への自由往来実現など環境の変化に対応し、民族教育は定住を前提として同胞の要求と期待に添う方向でさらに発展した。

専門班

ロシア語教育の廃止、商業科・文系・理数系班の設置

1970年代に入り民族教育は、教育内容や教科目、学級編成などを改めた。
本校で1950年代から始まったロシア語の授業は中級部で1971学年度から、高級部で1973年度から廃止された。
ロシア語の授業は1948年に入学した高級部一期生から始められた。当時、朝鮮では外国語教育はロシア語が基本であり、朝鮮学校では中級部に進学する際、ロシア語を選択するよう積極的に指導が行われた。教員たちも、人類初の人工衛星スプートニクの打ち上げ成功などを例にして「ロシア語がかつての英語のように世界の共通語になる」、「朝鮮に帰国すれはロシア語が必要になる」と強調した。
一期生(卒業生43名)も外国語として日本語、英語、ロシア語を全員が学んだ。英語は芮成基先生が、ロシア語は1948年4月に理科の教員となった日本人教師の渡辺威先生が担当した。渡辺先生はソ連で生活したことがあったことからロシア語の授業を担当したそうだ。渡辺先生は民族教育初のロシア語教師であったといえる。1955年まで勤務した。
高級部一期生である許日秀をはじめ日本の高校から転校した学生(一期生の高校入学時最高齢は20歳)のなかには既にロシア語を勉強した学生もおり、ソ連共産党機関紙プラウダを定期購読していた学生も数人いて渡辺先生の間違いをよく指摘していたという。
都立になった1950年以降、高級部の外国語教科は日本語が必修、英語とロシア語が選択科目であった。中級部では1956学年度から英語とロシア語のいずれかを選択するような方式でロシア語教科が導入された。全国の朝鮮学校の中級部の1/3の学生がロシア語を選択したと思われる。1965年、本校高級部18期生は806人、クラスは16クラスであったが6クラスがロシア語、8クラスが英語、2クラスが日本学校からの編入班であり、40%の学生がロシア語を選択していたことになる。
しかし、朝鮮に帰国した学生たちにとって必要不可欠であったロシア語も、1970年代の学生たちにとっては卒業後活用する機会がほとんど無い外国語であった。
このような状況の中でロシア語を選択する学生が少なくなり、中級部では1966年度新入生からロシア語教科をなくし英語を必修にした。高級部では1968年度からは「ロシア語班」、「英語班」の学級編成を廃止し、(中学でロシア語を選択した学生たちを考慮して)ロシア語と英語を選択授業にした。1973学年度からロシア語の教科は完全に廃止された。

1974学年度から高級部に商業科が設置され、1977学年度には高級部二年生のクラスを文系班と理数系班に分け、卒業後の進路に対応した。
1960年代におよそ10万人の在日同胞が朝鮮に帰国し、日本に残った同胞の多くは食堂、遊技業、製造業などの零細企業を営んでおり、生活基盤を日本に築いていた。1970年代の高級部卒業生の大学進学率は20%程度で約70%が就職した。
1975学年度高級部卒業生433人の進路は朝鮮大学校103人(23.8%)、日本の大学37人(8.2%)、専門学校32人(7.1%)、朝銀・商工会・朝鮮新報等総聯傘下機関など:144人(32.1%)、家事・就職:128人(28.5%)、帰国:5人(1.1%)であった。
保護者の世代分布は父親が一世947人(82.1%)、二世207(17.9%)、母親が一世563人(45.6%)、二世671人(54.4%)であり、保護者1,225人の職業は商工人747人(54.7%)、総聯活動家、教員、信用組合など220人(16.1%)、労働者203人(14.9%)、その他195人(14.3%)である。
また学父母の最終学歴は大卒以上11.3%、高卒22.4%、中卒28.0%、小卒20.4%、その他17.9%であり、朝鮮高校・朝鮮大学校出身者は学父母総数2414人中163人(6.8%)であった。
商業科はこのような在日同胞・学父母らの日本定住志向や階層構成、高級部卒業生たちの進路動向を前提に日本社会で経済活動と朝鮮商工会を始めとした同胞企業などで活躍することが出来る人材を育成する目的で設置されのであった。
商業科が設置された1974学年当時、本校では簿記・商業などを教えることが出来る教員はいなかったので商業科発足当初は簿記検定の資格を持っていた朝鮮商工会の職員が商業科目の授業を受け持った。計算・珠算などは本校教員たちが担当していたが2年目からは教員を簿記学校に送り商業科目を教えられる教員を養成した。1982学年度朝鮮大学校に経営学部が創設された以降、経営学部出身の申鉉秀、鄭燦吉、高隆範などが商業科目を担当した。
1974年度入学の商業科一期生は男子14名、女子75名、計89人であった。商業科に入学した学生のほとんどが高校卒業後の就職を希望しており、一期生以降も入学生の七割が女子学生であった。朝鮮商工会、総聯の傘下団体、同胞企業などから商業科の卒業生たちへの期待は大きなものであった。
今日まで商業科の卒業生総数は1500人を超え、日商簿記検定試験二級合格者をはじめ多くの資格検定試験で合格者を輩出した。合格者数の比率は日本の商業高校をはるかに上回っているといわれており教科書は日本の商業高校などで使われていたものを使った。

金日成主席は1975年10月2日、祖国を訪問した総聯代表団を接見された席で「在日同胞の民族教育は祖国のようにするのではなく在日同胞子女たちが置かれている実情に合わせ編成しなければならない」と教えられた。これを受け初・中・高の教科書と教育課程案を検討・分析し、教科書編纂を2年間にかけて行った。こうして1977学年度から改編された教科書・教育課程案・教授要項による教育が実施されるようになった。
1970年代に入り、大学への進学比率は年を追うごとに高まっていた。理数系の大学への受験準備や文学、英語、歴史などの文科系の科目をより深く勉強させることを目的に1977学年度から高級部二学年の普通科クラスを文系班(가반)、理数系班(나반)に分けた。学級編成が文系、理数系、商業系に別れた1978学年度高3(高級部29期、以下(  )内期は全て本校高級部卒業期)は文系7、理数系3、商業系2学級の計12学級であった。

青年同盟

青年同盟-朝青朝高委員会の改編

学業や学校生活の充実を図りクラブ活動・文化祭・運動会・対外活動等の活動などを行う朝青東京朝高委員会(高級部学生たちの自治組織)は1957学年度に発足した。それまで学生たちの自治組織であった「学生自治会」は発展的に解消され朝青東京朝高委員会に活動が継承された。
1960年代末頃、民族教育に対する日本政府や排他的勢力による差別、弾圧などと相まって在日朝鮮人運動全般と青年同盟、民族教育などの部門で愛国運動を極左的に導こうとする誤った傾向が表れた。
1968年7月、緊張する内外の情勢(「韓日条約」締結、「外国人学校法案」策動、日米韓の軍事作戦「三矢作戦」、在日運動内部に生じた「非組織的策動」など)に対して朝青を「強化」するため「学生委員会」が発足され、校内に学生組織が複数存在する状況が生じた。
1969学年度4月からは朝高委員会と学生委員会の役職を教員や専従たちが担うことになった。
朝高委員会は委員長 徐仁洙、副委員長 李海晃、趙清志、委員 李鉉虎、金奉潤、金潤根、朴戴福(以上現職教員)であり、学生委員会は委員長 金生浩(17期)、金格生、呉静和(18期)、金哲煥、李東夏(19期)などの朝青専従たちと在学生たちで構成された。
1968学年度から76学年度までの10年間にわたり朝青の重役を教員などが担うことにより青年同盟の主人公である学生たちの創造性を養い、鍛錬する機会が奪われる残念な結果となってしまった。この間、朝高委員会の委員長は徐仁洙、李鉉虎、李準兌、姜昌浩ら教員たちが歴任した。
内外情勢が緊張した時期に「非組織的策動」を糺すとしながら「政治性」一面だけを強調し、学校教育行政が乱れた結果、授業や学生指導が疎かになってしまった。
この時期の最も深刻な問題点は、学生たちが主体の朝青活動を行えず、学内での不正や問題行動を学生たちの力で解決できるように鍛錬させられなかったことである。

祖国訪問

第1次教員代表団の祖国訪問と「1973年8月31日教示」

民族教育で初めての教員代表団の祖国訪問は1973年8月に実現した。
第一次教員代表団は朝鮮総聯中央教育局金昌鉉局長を団長として本校の盧鐘寿(副校長)、李鉉虎(朝高委員会委員長)、金良光(教務部副部長)、尹相基(国語分科長)、朴三済(理科分科長)、金英淑(舞踊部指導教員)の6人とかつて東京中高で教鞭を執った姜英主(東京第3校長)、朴載福(学友書房)、権又根(東京第9校長)、呉紅心(東京第1)など全国各地から選抜された教員たち60余人で構成された。教員代表団は1973年8月3日にマンギョンボン号で祖国の人々の大歓迎を受け清津港に到着した。
金日成主席は8月31日、祖国を訪問した教員代表団と朝鮮大学校音楽体育サークルを接見した席上で総聯教育活動家の任務について教えられた。(「1973年8月31日教示」)
主席は日本で民族教育を行う困難について述べながら「学生たちを革命家に育てる為には教員たちが先ず革命家になら成らなければなりません…日本に住む朝鮮人が朝鮮学校を愛することは即ち朝鮮民族を愛することです…日本に住む朝鮮人が自分の国の言葉と文字も知らず歴史も知らなければ日本人になってしまいます。日本に住む朝鮮人は必ず朝鮮の言葉と文字、歴史を知らなければなりません。これは民族を取り戻す大切で尊い任務です。」と話された。
第一次在日朝鮮教育者代表団は日本帰還後、各地で報告会を行い金日成主席と接見した時の感激と祖国の愛や配慮について語り、また「8月31日教示」の内容や意義について報告した。第一次教員訪問団に参加した姜英主(当時東京第3校長・元東京中高教員)は当時をふり返り「私は金日成主席にお会いした時の感激を今でも忘れることはありません。30有余年の教員生活で困難に直面する度に「8月31日教示」や祖国訪問の感激的な日々を思い苦難を乗り越えてきた」と語った。姜英主はその後都内の学校で校長を歴任し、1991年8月には「教員勤続30年賞」表彰を受けた。現東京朝鮮学園歴代校長会会長である。

「教員勤続30年賞」
金日成主席は1991年、30年以上民族教育の第一線で教育の強化発展に多大な功績を遺した教員たちに夫婦同伴で祖国を訪問するように配慮された。金日成主席は「教員勤続30年賞」の表彰を受け祖国を訪問した教員夫婦たちを接見され記念撮影をされた。
「30年勤続賞」を受賞し金日成主席の接見を受けたのは当時東京中高で教員をしていた蔡鴻悦(東京中高校長・共和国人民教員)、宋恵淑(体育教員・共和国功勲体育人・功勲教員)、金潤香(教務部副部長)らと東京中高で教鞭を執った金達龍(教務部長)、姜英主、呉象元、朴柱栄らである。

第一次在日朝鮮教育者代表団が帰国した直後から「8月31日教示」の学習運動が全国の朝鮮学校で一斉に行われた。教員たちは「8月31日教示」に基づいて教育者としての決意や資質など自己点検をし、授業・学生指導などを総括した。これらは「8月31日教示」十周年となる1983年まで毎年行われ、教育水準改善の大きな契機となった。
金日成主席は1974年9月24日、祖国を訪問した教員代表団(団長 南時雨 朝大教務部長)、在日朝鮮青年芸術体育代表団(団長 青年同盟 宋岩武副委員長)、在日朝鮮高級学校学生祖国訪問団(団長 愛知朝鮮中高級学校 蔡鴻悦校長)に会われ在日青年同盟の課題について教えられた。この時本校からは孫晋隆(教職同分会長)、鄭秀容(教務部副部長)、全潤玉(6期、国語教員)、康明才(20期、朝高委員会指導員)が参加した。
金日成主席は冒頭「私は以前祖国に来た東京朝鮮中高学校のサッカー部と横浜朝鮮初級学校の音楽舞踊部の学生達と会った喜びと朝鮮大学校の音楽体育サークルの学生たちと会った時の感激がいまだに印象深く残っています。今日、祖国を訪問した青年同盟の学生と教員たちと会うことが出来嬉しくてたまりません。私たちは革命闘争をする過程でまた会うことでしょう。我々は革命の途上で会って別れ、別れて会いながら最後まで戦いぬき民族の念願である祖国統一の偉業を達成しましょう」と述べ、「日本で暮らす複雑な環境のなかで社会主義祖国を擁護し民主主義的民族権利を守り、南朝鮮の民主化運動を支持し、日本と世界の人々を団結させるためには青年同盟を革新的な組織にしなければなりません。」と在日朝鮮青年同盟の課題について教えられた。
主席は「言葉は民族を特徴付ける共通性で最も重要な表徴です。日本に住む同胞たちが朝鮮語を知らなければ朝鮮人とはいい難く、日本人になってしまいます。」と教えられた。この教えは、今も運動の基礎となっている。

教員たちは「8.18教示」や「8月31日教示」、愛国運動で左傾化と右傾化を克服し主体性の堅持を強調した講義資料「愛国事業で力を注ぐべきいくつかの問題」などを繰り返し学習し、決意を新たにしていた。1972年秋には民族教育を極左的に導こうとする誤った傾向(「金炳植事件」)が総括されたが、1974学年度になってもなおその影響は残っていた。教育行政・教育規則が乱れた結果は学校生活秩序の乱れ、学力の低下を招かざるを得なかった。
また教員たちの教育経験年数が浅いことも学生指導や授業の水準低下の要因になっていた。1971学年度に配置された新任教員は22人、1972学年度の新任教員は30人であった。
1972学年度、中級部6クラス高級部41クラス計47クラス中、39クラスの担任が教員経験年数1年未満の教員(新任・2年目)であり、この他8クラスの担任で最も経験年数が多い教員でも6年であった。
学校教育の成果を左右する重要な要因は教員の人間性・情熱・教育経験などである。この当時の新任教員たちは使命感と情熱をもって授業を行っていが「教員は10年して一人前」といわる点から考えるとまだ未熟であった。
1974学年度に行った教職員・学生たちの実態調査の結果によると、教員数94人(男58、女36)、平均年齢27.7歳(男26.4、女28.9)、在日一世5人、二世89人、教員経験年数6.4年(男6.5、女7.0)であった。
このような時、国士舘高校生らによる集団暴行事件に備えるために行った「集団登下校」などは行き過ぎた「先輩-後輩関係」の悪弊を誘発させ、「度を超えた上級生への挨拶」、喫煙などの非行も大きな問題になったのである。これらは学力低下を招く要因にもなっていた。男子卒業生中、最優等生が一人もいない学年度もあった。(参考資料①、②参照)

そこで、1975学年度に教務部長、教養部長、朝高委員会委員長など、地方において重役として活動していた教員たちを一挙に配置したのであった。第1教務部長(教養部長)に兵庫で教員をしていた曺令鉉(後に総聯新潟県本部委員長・総聯中央副議長)、第2教務部長に愛知県で小学校の校長を歴任した李道相(後に共和国功勲教員・愛知朝鮮中高級学校校長)、京都中高で学生委員会を指導していた姜昌浩(後に共和国人民教員・京都朝鮮中高級学校校長)が東京朝高委員会委員長に就任した。
これは新しい陣容で教員たちが心を合わせ授業の水準をあげ、学生たちが集団主義に基づいた学校生活を送れる様な体制を作り、教育向上と人材育成の成果で学校創立30周年を迎える組織的な措置であった。

参考資料①(学生成績推移)

1974学年度1975学年度2017学年度
12年・3年間最優等4.8%4.3%34%
1年間優等・最優等20.9%9.9%45%
合計25.7%14.2%79%
目標35%35%80%

参考資料②(学生出席率推移)

1974学年度1975学年度2017学年度
12年・3年間皆勤5.8%8.8%73%
1年間皆勤11.1%13.6%10%
合計16.9%22.4%83%
目標-89.8%99.6%

※現在学校では無欠席・無遅刻・無欠課・無早退の「四無運動」が行われている。

来校

共和国代表団の来校

祖国への自由往来が出来なかったこの当時、来日した朝鮮の代表団を向かえた在日同胞たちは祖国の人々に会う喜びに感激し祖国を身近に感じた。
60年代に韓弼花選手たちのスピード・スケート、辛金丹選手ら東京オリンピック代表団が来日し大歓迎を受けたが70年代には数多くの代表団が来日した。来日した代表団のほとんどが東京朝鮮文化会館(本校体育館)で行われる歓迎集会に参加するため本校を訪れた。
1973年1月に来日したピョンヤン万寿台高等軽工業学校の「赤い稲妻」旋風に在日同胞たちは胸を熱くした。
日本テレビ、日本サッカー協会、日朝友好議員連盟などの招請により来日した万寿台高等軽工業学校のサッカーチームは6日、東京朝鮮中高級学校を訪問した。校門から体育館前の広場まで学生たちの騎馬に乗った朝鮮のサッカー選手たちは全校生の熱烈な歓迎を受け体育館で行われた在日朝鮮人中央歓迎集会に参加した。
万寿台高等軽工業学校は京都、兵庫、関西、東京選抜を撃破し、4万5千人の観衆を集め東京国立競技場で行われた全国高校サッカー選手権優勝校市立浦和高校との試合を2-0で勝利した。この試合は日本テレビで全国放映された。「赤い稲妻」と称賛された朝鮮チームの活躍は同胞たちに喜びを与え、多くの人々にレベルの高さを見せつけた。
22日には、選手団の帰国を前に、競技成果を祝う朝鮮学生たちの集会と、歓迎祝賀公演が行われた。集会終了後東京選抜との試合にそなえた練習が本校運動場で行われた。
28日には西が丘競技場で東京朝高サッカー部を主力とした朝鮮高級学校選抜チームとの親善試合が総聯中央韓徳銖議長と総聯の活動家、同胞、学生たち1万5千人が声援を送る中でおこなわれ、試合終了後選手たちはグラウンドを一周し同胞たちに別れの挨拶をした。

朝鮮代表団の日本訪問は、73年に国立万寿台芸術団、朝鮮記者同盟代表団、WHO代表団、朝鮮教員代表団、抗結核代表団、74年教育文化職業同盟代表団、朝鮮映画人代表団、4.25蹴球団、卓球選手団、女性同盟代表団、IPU列国議会同盟代表団、75年にも六つの代表団が本校を訪問した。
朝鮮代表団の同胞たちの歓迎集会は常に本校体育館で行われたので、代表団が日本を訪問する度に全校生で校門から体育館前まで隊列を組み歓迎した。代表団を迎えることは、祖国と在日同胞が堅い絆で繋がっていることを実感する貴重な出会いになったのである。
1973年7月30日に来日した朝鮮国立万寿台芸術団は9月17日まで60回の公演を行い18万人が観覧した。万寿台芸術団は公演観覧者たちに深い感動を与え、朝鮮芸術の水準の高さを誇示した。公演はNHKテレビで全国放映された。
それまで朝鮮代表団の日本への入国は日本で開催されるスポーツ大会出場のためであったが歌舞芸術の日本公演は初めてのことであった。万寿台芸寿団はアンサンブル公演と歌劇「花を売る娘」を披露した。同胞たちは合唱「栄えよ!我が祖国」で始まるアンサンブル公演が始まるやいなや感激の涙を流し、歌劇「花を売る娘」を見ては植民地時代を思い涙した。

この日本公演は朝鮮学校で舞踊、合唱などの芸術サークルでクラブ活動をしている学生たちに大きな影響を与えた。1973年11月に在日朝鮮高級学校生による「芸術交歓会」が初めて行われた。交歓会には東京、大阪、神戸、京都、愛知、神奈川、茨城の各高級部の民族器楽、吹奏楽、合唱、カヤグム並唱、演劇、舞踊クラブの学生たちが出演した。交歓会での芸術発表会は、東京朝鮮文化会館を埋め尽くした同胞や学生たちに感銘を与えた。当時、東京朝高の吹奏楽、民族器楽、合唱、舞踊部の水準は全国朝鮮高級学校の最上位にあり「交歓会」でも中心的存在であった。「交歓会」は2回、3回、…と繰り返されるなかで各学校の芸術クラブの水準が急激に伸びていった。
1978年に日本公演を行った「ピョンヤン学生少年芸術団」(団長崔竜海)の日本公演(1978.5.1~6.14)が11都市で45回行われ15万人が観覧した。「学生少年芸術団」の日本公演は万寿台芸術団と同様に朝鮮芸術の素晴らしさを誇示したが、特に幼い子供たちによる民族的でありながら「世界水準」の歌や踊りに観覧者たちは度肝を抜かれたのであった。

総勢130人で構成された「ピョンヤン学生少年芸術団」は日本公演を行いながらも同胞を訪ね朝鮮学校を訪問し手を取り合いながら交流を深めた。これは朝鮮学校の学生たちが同世代の朝鮮の子どもたちと絆を結んだ貴重な出会いであった。5月5日に「芸術団」は教員・学生・同胞たちの熱烈な歓迎の中で本校を訪問し「中央歓迎集会」に参加した。

5月4日に東京朝鮮文化会館で行われた公演を学生たちは観覧した。学生たちは独唱、アコーデオン独奏、軽音楽などが強く印象に残ったと語った。この当時「芸術団」の公演のものまねをすることが朝鮮学校の学生たちのなかで流行し、高3の修学旅行(能登)のクラス対抗の余興で行った「芸術団のものまね」は拍手喝采を浴びた。 日本公演を終え帰国する「芸術団」の歓送集会が6月12日に行われた。代表団は午前中に本校を訪問し校内見学と授業参観を行い、午後には「ピョンヤン学生少年芸術団の学生たちを熱烈に歓迎します!」と黒板に書かれ教室で「歓迎懇談会」が行われた。学生たちは「芸術団」の日本公演の成果を祝い校内の清掃や歓迎のための造花作りを行い、服装を端正に整えウリマル(朝鮮語)常用の成果で歓迎しようと準備した。「懇談会」では団員たちに花束と各学級で準備した記念品を贈呈した。学級代表が歓迎の挨拶を述べ団員の答礼の挨拶の後、うちとけた雰囲気の中で歌をうたい記念撮影を行った。この最中に大きくない地震が起こったのだが、芸術団員たちが非常に驚いていたことが印象的だったと当時のことを記憶している学生たちが少なくないそうだ。6時から「ピョンヤン学生少年芸術団を歓送する同胞たちの集会」が体育館で行われた。

朝鮮の代表団を迎える度に東京中高生たちは祖国を肌で感じ感銘も受けていたが、自分たちが学ぶ教室で朝鮮の学生たちとの交歓は祖国への訪問が出来なかった当時の学生たちにとって祖国との深い絆と祖国の愛情を直に感じた忘れることが出来ない意義深い出来事であった。
78年に来日した「ピョンヤン学生少年芸術団」の引率教員には韓澄子先生(7期)がいた。本校体育教員だった韓先生は1961年に帰国し、平壌学生少年宮殿で芸術体操を指導していた。韓先生は宋恵淑教員ら元同僚との再会や母校の後輩たちの歓迎は人生において忘れることのない貴重な思い出であると一昨年(2016年)祖国訪問時に筆者に語った。(韓先生は東京朝高6期サッカー部主将であり朝鮮人民から尊敬を受けたサッカー解説者であった李東揆氏の夫人である。)
また、「ピョンヤン学生少年芸術団」の日本公演の際、司会として日本語で挨拶をするため「芸術団」と同行したのは当時東京第4初中の学生であった盧暎姫(元東京中高教員・朝高33期生)である。

1978年9月、金昌鉉教育局長を団長とする共和国創建30周年を祝賀する「在日朝鮮学生少年学生芸術団」が祖国を訪問し「祝賀公演」を行った。この芸術団には本校で26人が選抜された。芸術団は金日成主席が参席する中、祝賀公演を行った。この芸術団には朝高委員会 洪哲秀委員長、金宇鳳、康秀奈、任賢淑ら高3の学生や中1の白明姫(現東京中高教員)を含む26人の本校学生が参加した。

指導

韓徳銖議長が国語教育について指導

「言葉は即ち民族である」と言われるように朝鮮語には悠久な朝鮮民族の歴史と人々の感情、民族意識が反映されている。朝鮮語の美しさとハングルの素晴らしさを知り本国の人たちと自由に話せ、朝鮮映画やドラマの内容を理解し、小説も愛読し感動できる母国語の素養を身に着ける国語教育は民族教育の中核をなすものである。
民族教育は祖国解放直後、「奪われた文字と言葉を取り戻すため」始められた。国語教育は民族教育の現場で常に最重要課題として提起されてきた。そして今日、東京中高学区内の朝鮮学校では学生たちが「ウリマル100%」で学校生活を送っている。東京中高でも校内はもちろんウリマルで登下校する学生たちが多くいる。これらは国語教科を担当する教員たちを始めとする朝鮮学校の教員たちの努力のたまものである。
このような国語教育の成果を目の当たりするとき総聯中央 故・韓徳銖議長が60年代から80年代にわたって繰り返し本校の教員・学生たちに国語教育の重要性についての指導されたことを思わざるを得ない。

運動会を3日後に控えた1969年10月2日、議長は突然来校した。「運動会の準備も大変だが国語を教えている先生たちと意見交換をしたくて学校に来た」と盧鐘寿(国語指導委員会責任者)、尹相基、金応燮、姜弼生ら国語の授業を担当している教員たちに東京中高での国語教育の問題点について意見を交わし問題点を指摘した。

議長は9月に行われた芸術競演大会関東予選詩朗誦部門で東京中高生が一人も入選者を出すことが出来なかったと指摘し、「発音が正確でなく、大きな声を出すだけで詩の意味も知らないようで感情もこもっていなかった。民族教育の歴史が最も長い学校、『共和国創建20周年称号』の表彰を受けた学校であるのに予選を通過することもできなかった。これは学生たちに素質がないわけでなく、東京中高の国語教育に問題がある」と厳しく批判された。
議長は「民族教育の基礎はウリマルの言葉と文字教育で築かれる。もし、初級部、中級部でしっかりウリマルを習っていなくても高級部ではウリマルを身につけ卒業させなければならない。来年共和国創建22周年記念芸術競演大会では東京中高が全競演種目で賞を取れるよう努力しなければならない。東京中高が賞を独占しても構わない。そのようにしてこそ民族教育が前進する。まず東京中高が模範にならなければならない。『模範教員集団運動』も国語教育を前面に押し出しながら繰り広げなければならない。掛け声だけで終わってはいけない。東京中高が国語教育の先頭に立つことを心から期待する。」と熱く訴えた。

1975年3月24日、韓徳銖議長は総聯中央本部で行われた国語教科担当教員の講習会で国語教育の問題点と改善方向と対策について強調した。
1975学年度が始まると本校では韓徳銖議長がウリマルについて強調した内容を教員たちに解説学習を行った。「国語指導委員会」は韓明洙校長を責任者とし、副責任者を盧鐘寿、委員を尹相基、李道相、孫晋隆、呉正煥、金武正、朴魯焄、金良光、趙邦佑、李応洙、全潤玉などで構成しアンケートを行った。内容は①議長の指導に対する感想②学生たちにどのように議長の指導内容を伝えたのか③現在教員、学生のウリマルに対する認識と状況④対策と計画⑤「国語指導委員会」に対する意見とした。このアンケートを参考にして総聯創立30周年に向けた運動「ウリマルと文字をしっかり学びどこでもウリマルを使おう」を提起した。運動ではウリマルの重要性と正しい観点を持つこと、クラスの50%以上が「ウリマル模範生」になること、朝鮮語で書かれた本を1日20ページ読むこと、「ウリマル等級制」試験を行うなどの目標を定め運動の状況を競争グラフで表した。
このように韓徳銖議長の指導を具体化し「ウリマル100%の日」を定めるなど、一過性の運動でなく年間を通して「ウリマル運動」を繰り広げた。クラスで毎日行われた「ウリマル総括」、映画「朝鮮の子」上映、学生たちの宿泊講習会などを間断なく行った。本校創立30周年を迎えた1976学年度には女子学生のクラスで日本語を使わずウリマルを使う雰囲気が醸成されたと一定の成果を収めたことを総括した。しかし、依然として学生たちが十分に意思疎通出来るだけの語彙数がなく、教員たちの話す朝鮮語も学生たちの手本となれずにいた。

議長はその後も予告なしに教員たちの前に現れ朝鮮新報や書籍を読ませ、ウリマルに関する質問をしながら発音や抑揚などについて教えられた。ある年にも突然、教員学習の時間に来られ64人の教員たち一人ひとりを指名し教員たちのウリマルでの間違いを正されたりもした。教員たちは貴重な時間を割いて何度も足を運び教員たちを励ます韓徳銖議長に緊張・恐縮しながら指導を受けたのであった。在日二世の教員たちにとって一世である議長の教えは、忘れることの出来ない感激として記憶に残った。

東京中高の国語教育、「ウリマル生活化」運動をふり返ると男子学生の制服が「ブレザー」に変わり、新校舎で学ぶようになった1998学年度頃から校内での「ウリマル生活化」の水準が飛躍的に向上したと言える。 この要因は何よりも学区内の初中級学校でウリマルを校内で使うことが当たり前になった学生たちが入学したことであり、インターハイなどの公式戦出場により学生たちが登下校中に問題を起こすことが無くなったことや、かつてのように教員が「ガクラン」の校則違反の指導にエネルギーを費すことも無く学生指導に力を注ぐことが出来るようになったことである。

同時に重要な要因の一つは1995年4月に朝鮮大学校から赴任した具大石校長の「ウリマル・挨拶・掃除」のスローガンを掲げ全教員と学生たちがこのスローガンを合言葉にウリマル運動を繰り広げたことである。また、具大石校長は授業の質の向上を大前提として、朝鮮学校の教育を改善するうえで中核をなすのは学生たちの自主性・創発性を伸ばし、「一人はみんなのために。みんなは一人のために!」の精神を育むために学生たちの自主組織である「朝青・少年団」活性化し、「ウリマル運動」を常に活動の中心課題として活動を行ってきたことが「ウリマル運動」での飛躍的な向上をもたらしたのであった。 かつて学生たちが歌う歌の多くは日本の流行歌が多かったが、1990年代から始まった祖国への修学旅行などを契機に学生たちは朝鮮の歌を好んで歌うようになったことも校内でのウリマル生活化を後押ししている。

具校長は1972年に日本の大学院で修士課程を終え数学教師として本校に赴任した。民族教育を受けなかったため新任当初は朝鮮語を習いながら授業をしていた。本校では数学分科長として、1977年からは朝鮮大学校理学部、師範教育学部で教鞭を執った。朝鮮大学校で活動中の1992年に「共和国労力英雄」、1995年には民族教育において6人目の「共和国人民教員」の称号を授与され、在日朝鮮人中央教育会会長も務めた。

サッカー部

サッカー部の活躍

日本でのサッカー人気は高く2019年現在アジア地域での強豪として名を馳せている。日本がアジアのサッカー強国としての土台を築いた要因の一つは、本校サッカー部出身選手が主力をなした在日朝鮮蹴球団であり、また全国の朝高サッカー部であるといえる。60年~70年代の日本代表選手たちの高校時代その地域の最強チームは朝鮮高校であったと多くの選手が語っている。日本の公式試合に出ることもできなかった「幻の日本一」本校サッカー部が日本サッカーに与えた影響は計り知れない。

本校サッカー部は1956年から行われた在日朝鮮人学生中央体育大会で毎回のように優勝した。56年から86年まで行われた25大会の内20回の優勝を誇ったのは、本校サッカー部の強さが群を抜いていたことを如実に表しており、中央大会は事実上の日本における最強チーム決定戦であった。このことは60年代末に高校サッカー3冠を果たした浦和南、選手権大会優勝の習志野高校など「強豪校」と朝高が試合をするたび大差で勝利した事実が物語っている。また全国の朝高サッカー部も「打倒東京」を合言葉にサッカーの練習を行っていた。

1976年から日本の高校サッカーはそれまで大阪長居競技場などで行われていた選手権大会が首都圏に移り、大会がテレビ放映されるなど、70年代は日本の高校サッカーのレベルが高まった時期であったが、朝高サッカー部の水準は依然として全国高校サッカーのトップレベルにいた。

1975年3月、全国の強豪が集まる第二回清水高校サッカーフェスティバルに初めて招待された。本校の参加は大きな話題を呼んだ。大会をサポートした読売新聞は「今大会からスピード、テクニックともに抜群の力を持つ東京朝鮮高校が参加する。スリリングな熱戦が展開されるだろう」と書いた。本校は予選リーグを無失点で全勝し、準々決勝で帝京(75年度選手権優勝校)を1-0、清水東(同準優勝)を2-0で下した。決勝戦は静岡工業(76年同大会準優勝)に0-2で惜敗したが、関係者は驚きの目で朝高サッカーを見つめた。
名門清水東高 勝沢監督は当時のことを次のように述懐した。
「私のチームは75年の選手権大会決勝で帝京高校に敗れはしたが大半は1,2年生であったので今年こそはと、全国制覇の野望を抱いていた。朝高は選手権大会優勝校の帝京を破り、清水東も翌年選手権の優勝校古河一高破り準決勝で激突したのだが、0-2で完敗してしまった。朝高は結果的にその年の1位、2位を連続して破ったのであった。まさに朝高サッカーは驚異であった。」
この大会に出場した選手たちは2年 康文碩、任浩文、李在述、金栄浩、金益祚、1年 李清敬、金在峰、李鉄泰、徐貴敏などであった。
1980年にヨーロッパで開催された社会主義国ユースサッカー大会に夏文煥主将(31期)が朝鮮代表に選ばれ中心選手として活躍した。民族教育の歴史で朝高生が朝鮮代表としてスポーツ大会に参加した初めての事例であった。
翌81年の第八回清水高校サッカーフェスティバルに招待されたサッカー部は、予選リーグの決勝で日本大学と対戦した。朝高が主導権を握る一方的な試合であったが、痛恨の引き分けで得失点差により2位リーグに回った。2位リーグでは広島県工(選手権4位)を6-0で、北陽、韮崎、八千代松陰、東海大一高を破り2位リーグで優勝した。この試合を観戦したサッカー評論家は「一位リーグに進出した帝京、清水東と戦っても圧勝したであろう。『幻の日本一』は生きていた」と観戦記に記した。八回大会に出場した主な選手は2年 辺障満、高英禧、許重九、尹弘寓、文鎮太、金英哲、趙庸徳、1年 金伸彦、金鐘成、朴承範、宋賢進、宋昌純などであった。 翌82年九回大会にて予選リーグを1位で突破した本校は、大商大、静岡大、清水商、群馬選抜、島根選抜チームと戦い4勝1分けの成績で大会準優勝を収めた。「サッカーマガジン」紙は九回大会の記事で「高校NO1は東京朝鮮高」との見出しで「大会は6大学、30高校を集めて行われた。…高校チームでは東京朝鮮高が大商大に引き分けた他は全勝で2位につけ健闘。なお、大会の最優秀選手には、朝鮮高主将の金信彦が選ばれた」と書いた。九回大会に出場した主な選手は2年 金信彦、金鐘成、具本勝、宋賢進、朴承範、李徳雨、1年 李成皓、白栄玉、柳昌守、朴公祥などである。

85年に行われた12回大会で本校は初優勝を果たした。静岡「ユースサッカー」紙は「駒沢大を1対0で破った東京朝鮮高が見事初優勝」と報じた。12回大会は全国各地から参加した強豪36チームが雨天の中でレベルの高いゲームを展開した。予選リーグを勝ち抜き1位リーグに入ったのは高校勢 古河一、清水商、武南と大学勢 駒沢大、愛知学院と本校の6チーム。1位リーグ決勝で東京朝鮮高は大学代表の駒沢大を1対0で破り初優勝を飾った。最優秀選手にゴールキーパー劉誠元が選ばれた。12回大会に出場した主な選手は2年 金承革、李憲、1年 李世皓、金成洙、劉誠元、柳正浩、金鐘寿、高範碩、金英哲、崔東学、李東烈などである。
総聯中央韓徳銖議長は12回大会の優勝を高く評価し、監督と選手、宋都憲校長を中央本部に招き優勝を称え記念撮影をした。

71年から始まった東京国体選抜チーム(当時帝京高校の選手を中心とした東京選抜は全国のトップクラスのチームであった)との定期戦において85年14回大会までの戦績は5勝5敗4分であった。

東京中高のサッカー部は輝かしい伝統を持っており、現在も多くの卒業生はサッカー部の活躍を心から期待している。1986年12月にサッカー部後援会(OB会)が発足した。

役員は以下の通り。会長 朴正人(12期・主将)、副会長 呉正煥(5期)、鄭智海(11期・共和国人民体育人)、金鐘培(学父母代表)、朴文雄(学父母代表)、理事長 高武和(11期・主将)、事務局長 金希鏡(14期・主将)、副理事長 曺良明、金英徳(15期)、李英俊(16期)、李昌雨(17期)、李重基(18期)、全尚烈(19期)、辛辰彦、任達文(21期)であり名誉顧問 許宗萬(現総聯中央議長・5期)、顧問 金世炯(サッカー部初代監督)、柳景煕(60年代監督)、金明植(71年~86年監督・7期)、OB会事務局 朴仁作(学父母代表)、金成泰、金有賛(18期)、閔丙成(19期)、辛辰彦(21期)。

OB会発足に際し許宗萬名誉顧問は朝鮮高校が「高校サッカーの覇権者になろう!」と呼びかけ次のように語った。「私は1952年から55年3月まで母校東京朝高のグラウンドでサッカーボールを蹴りながら青春期を送りました。今でも忘れることが出来ないのは1955年1月、東京朝高が東京都代表として高校サッカー選手権大会に出戦し朝鮮民族の気概と民族教育の素晴らしさを誇示したこと、万歳を叫び応援してくれた同胞たちや学生たちの姿と笑顔です。昔も今も東京朝高サッカー部は在日同胞たちの誇りであり希望でした。われらの誇らしい後輩たちが必ず近い将来に日本高校サッカーの覇権者になることを確信します。」
また朴正人後援会会長は「サッカーは在日同胞社会で関心が最も高いスポーツです。かつては高校の頂点にも立った朝高サッカー部であるが、現在サッカーブームが起きている日本の状況を見るにつけ在日サッカーの水準向上の必要性を痛感します。朝高サッカーを強くするということは初・中級学校のサッカーを強化することであり、朝大蹴球部と在日朝鮮蹴球団の強化つながるものと確信します。東京中高創立40周年を記念して結成された後援会が朝高蹴球部を愛し役割を果たすことによって『民族の誇り』をとどろかせるため全力を尽くします。」と語った。

現在(2019年2月)のOB会の役員は直前会長 洪昌秀(41期)、相談役 朴益樹(43期)、会長 安秉再(44期)、副会長 黄学淳、金昌修(45期)、丁明秀、尹星二(48期)、幹事長 文智成(51期)、副幹事長 李成珍(52期)、金嶺輝(53期)、洪泰日(57期)である。

ラグビー部

ラグビー部の創部

本校ラグビー部は1975年に創部された。部員は17人であった。

それまで朝高ラグビー部は九州だけにあった。1958年、東京教育大(現筑波大)でラグビー部主将を務めた後、九州朝高に体育教員として赴任した全源治氏が、九州朝高ラグビーを創部したのが朝鮮学校でのラグビー部の始まりである。その後1968年、全源治氏は朝鮮大学校ラグビー部を創部した。これによって、李在赫、金武正(朝大13期)、金鉉翼、朴ポンド、裴ヨンドン(朝大14期)ら朝大ラグビー部出身者が卒業後、九州、神戸、大阪、愛知、東京に赴任し、全国の朝高にラグビーが創部された。

本校では同好会のような形で1960年代にもラグビーをする学生たちがいたが、1975年第1回朝鮮高級学校ラグビー中央大会が大阪で行われるのを機に、「ラグビー部」として正式に発足した。

創部メンバーは金日浩(初代主将)、高秀元、申東実、李誠、李在旭、文進植、尹弼運(26期)、金徳昌、呉英宗、文済銀、洪誠根、宋邦哲、申保益、朴京富、朴昌薫、洪亮洙、徐大成(27期)、洪昌宏、高明栄、梁錫俊、姜済東、兪晶、李成哲、梁俊範、趙星一、宋英司、金哲司、陳明洙(28期)らである。

創部メンバーのほとんどが東京第一の卒業生であったのは創部の前年までラグビーをしていた高英斗(25期)の影響であるという。この当時、どのクラブに入るかは出身校の先輩の影響・「強要」が大きかった。その後も東京第一卒業生の多くがラグビー部に入部した。
創部当時ラグビーの練習を指導したのは金武正(17期)、李在赫(17期、元教員)、宋英樹(22期)、板倉猛(家政大教師)らであった。

第1回在日朝鮮学生中央体育大会(ラグビー部門)は大阪城公園ラグビー場で行われた。しかし、李在赫らに率いられた本校ラグビー部は初戦で大阪朝高に大敗した。大阪朝高ラグビー部は、朝大ラグビー部出身の金鉉翼によって1972年に創部され経験、技術とも東京を上回っていた。3位決定戦でも神戸に敗れた。経験不足、練習不足であった。中央体育大会以降も日本の高校と練習試合を何回か行ったが勝つことが出来なかった。
初勝利を飾ったのは同年11月19日、早稲田実業との練習試合であった。早実は以前0-22で大敗したチームであった。試合開始直後に先制点を奪われる展開であったが、厳しい練習の成果が発揮しようと闘志を沸き立たせ、18-10で勝利した。本校ラグビー部の記念すべき初勝利であった。
一方で、朝鮮高校が日本の公式戦に参加が認められていなかった当時、練習試合をしようにもことごとく断られてしまっていた。そんな中で練習試合を引き受けてくれたのが、かつて4度の日本一に輝いた目黒高校(現目黒学院)であった。
1994年、朝鮮高校の日本の公式戦参加への重い扉がついに開いたその年の秋、高等学校ラグビー東京都予選に参加した本校ラグビー部は、準々決勝まで勝ち進んだ。結果、國學院久我山高に0-36で敗れはしたが、初参加の公式戦で東京都ベスト8の結果を残した。
翌95年、ラグビー部3期生高明栄(28期)を中心に「東京朝高ラグビー部『後援会』」が結成された。名称を「OB会」ではなく「後援会」としたのは、全国の朝高OBを含めて誰でも支援できる会にしようという意思のあらわれであった。初代会長は第1期生の高秀元が務めた。
公式戦への初参加以来、ラグビー部は毎年のように東京都ベスト8、ベスト4という成績を収め、実力もそれなりに評価された。しかし、花園への道は遠く険しかった。毎年のように名のある学校の前でその道を閉ざされたのであった。
とりわけ、創部以来金武正、梁宗信、梁章信、尹太吉らが支えたラグビー部を、東京の強豪校に作り上げたのは申鉉秀元監督であった。
申監督率いるラグビー部はついに2000年、第80回ラグビー大会東京都予選で初の決勝戦へと駒を進めた。しかし結果は、奮闘虚しく7―13でノーサイド。
その後、呉昇哲、邵基学がコーチとして赴任し、ラグビー部はますます力をつけ、毎年のように東京都上位に名を連ねる強豪校になった。
歴史が動いたのは2015年。第95回全国高等学校ラグビーフットボール大会東京都決勝は雨のなか多くの在日同胞、朝高ラグビー関係者が見守る中で行われた。激しい攻防戦の末、ラグビー部は29-10で明大中野を打ち破り、悲願の全国大会出場を決めた。多くの同胞、ラグビー関係者がその勇姿に涙した。
夢の全国大会では、一回戦で筑紫高校(福岡県)に19-26で敗れ、悔し涙を飲んだが、東京朝高ラグビー部の歴史に新たな1ページを刻んだ。その後、後輩たちは「花園1勝」というスローガンを掲げ、日々全国大会出場のため輝かしい汗を流している。

ボクシング部

ボクシング部の創部

本校ボクシング部は、創部以来、インターハイをはじめとした公式戦において東京朝高の名を全国に轟かした本校が誇るクラブ(소조)である。世界チャンピオンも輩出された。

1974年、高校2年生であった姜容徳、李泰英(共に26期)が同級生や下級生に呼びかけ体育館入り口前の赤レンガ上で練習を始めた。姜容徳と李泰英は目白にあった米倉ジムでボクシングの練習をしており「朝高にボクシング部を創ろう」と学生たちに呼びかけたのであった。姜容徳と李泰英らは「熱心に練習してボクシング部を認めてもらおう」と練習に励み、その創部への思いと熱心に練習する姿を見た学生委員会の周正植(23期)、黄明(24期)らが応援して1975年4月にボクシング部が創部された。創部時のボクシング部担当教員はボクシング経験のない周正植がなり、1976年から朝大ボクシング部に所属していた黄義孝(20期)が監督に就任した。創部メンバーは姜容徳、李泰英、申東実、金英秀、梁源亀、宋秀進(26期)、盧載信、尹英培、康承翊、金義明、李富雄、李正男、李哲雄(27期)、朴政実、安健一、金正和、金孝珍、梁元三、林成植、姜成典(28期)であり、初代マネージャーは夫衛星(26期)が務めた。

ボクシング部が創部される以前にも「同好会」のような形で金剛寮(校内にあった3階建ての食堂、寄宿舎)の屋上で「ボクシング部」を自称して練習をしていた学生たちがいた。その中には後の日本チャンピオン辺昌龍(18期、現船橋ドラゴンジム会長)をはじめ、プロボクシングで活躍した選手もいた。しかし、指導できる教員がいない状況でありボクシング部が創られなかった。
1981年には、初代主将を務めた姜容徳が朝大卒業後ボクシング部監督として帰ってきたことによってその水準が上がった。のち1984年に新任教員として赴任した李成樹(29期)によってボクシング部は本校を代表する体育クラブになったのである。
創部の翌年1976年に朝高に入学した李成樹はボクシング部に入り着々と実力を伸ばした。しかしインターハイに出場できなかった当時の唯一の「公式戦」は、日本の高校選抜チームと試合や国体強化試合のオープン戦であった。東京の高校ボクシング監督コーチは創部間もない朝高ボクシング部を温かく迎え、練習試合を組んでくれた。それのみならず東京都選抜選手として沖縄高校選抜、神奈川高校選抜、秋田高校選抜と試合をすることまで出来た。
李成樹はこれらの試合で日本の選手たちに勝つことを目標に練習していた。高3時、国体強化試合にオープン参加した試合で、インターハイ優勝者を圧倒するほどの選手に成長した李成樹は朝大に進学後もでボクシングを続けた。朝大ボクシング部では関東大学リーグ4部から3部へ昇格させる原動力となり理学部卒業後「ボクシング部を強くする」という熱い思いで1983年、母校に赴任したのであった。
1983年1月、在日朝鮮高級学校選抜と東京都高等学校選抜との第一回ボクシング親善試合が、北区駿台高校で行われた。公式戦が無い朝高ボクシング部の学生たちとっては、公式戦に準じた試合であった。試合には東京、大阪、神戸朝高の学生が出場した。続いて4月には大阪朝鮮高級学校体育館で、朝鮮高級学校選抜と兵庫高校選抜との第一回親善試合が行われた。
ボクシングジムへの練習なども行い、実力を培った部員たちは唯一出場出来た公式戦、東京都社会人ボクシング大会に出場した。相手は大学生や実業団の選手たちであったが、大会で優勝選手を出したこともあった。

練習場の無かったボクシング部は校舎内の教室に練習場を作り、その後運動場横(現在のテニス場位置)のプレハブの床にロープを張ってリングを作り練習場とした。しかし李成樹は、1990年代末「運動場の隅や校舎内の目立たない場所でなく学生たちが必ず目にする場所に練習場を作りボクシング部の存在をアピールしなければ」と図書室跡に練習場を設置できるよう粘り強く働きかけた。これが現在の旧校舎一階にある練習場であり、インターハイで活躍した選手たちはここで練習をした。(世界チャンピオン洪昌守の時代の練習所は運動場横のプレハブである。)

1994年、初参加したインターハイでは銅メダル3個、団体6位の成績を収め、ボクシングの強豪として名を知られる存在になり2000年には洪昌守(43期)が世界チャンピオンになった。
姜容徳と李泰英らの情熱から始まったボクシング部の40年は、学生と卒業生、在日同胞に大きな喜びを与えた誇り高い道のりであった。
「自分を乗り越えろ!(자기을 넘어서라)」を口癖に高校ボクシング界に旋風を巻き起こし、世界チャンピョンを育てた李成樹は2001年に「共和国功勲体育人」の称号を授与された。家庭も顧みないほどの「熱烈指導」で学生たちを鍛えたその姿は、急逝して10年以上の歳月が流れた今でもボクシング部卒業生たちの心に宿っている。

30周年

学校創立30周年を迎える

1975年5月24日、総聯結成20周年記念中央大会において本校は「共和国国旗勲章一級」の栄誉を授かった。これは民族教育の歴史で初めてのことであり教員・学生だけでなく卒業生・同胞たちの喜びであった。同時に韓明洙校長に「共和国功勲教員」の称号が授与された。韓明洙校長の「功勲教員」称号授与は1963年に東京中高・南日龍校長ら3人に授与された以降4人目であった。

6月11日に体育館で「共和国国旗勲章一級」と「共和国功勲教員」称号授与に感謝する東京中高教員・学生・学父母による集会が行われた。集会では総聯中央李季白副議長が祝賀の挨拶を行った。韓明洙校長が報告を行い学生・学父母の代表が「学校創立30周年までに東京中高を『模範学校』の水準に引き上げる」と決意を述べた。
教員たちは韓明洙校長の「功勲教員」称号授与を心から喜んだ。それは韓明洙校長が民族教育の発展に一生を捧げて来たことに対する尊敬の念を抱いていたからである。
韓明洙校長は1972年夏、在日朝鮮学生初めての祖国訪問団となった本校サッカー部を率いた訪問団長として金日成主席の接見を受け「8.18教示」の教えを直接受けた校長であった。
韓校長は1925年、植民地下の朝鮮に生まれ幼いころ父母と共に日本に渡ってきた。東京墨田の皮なめしを業とする部落があった木下川(現八広・立花地域)で小学校を卒業し、修徳商業卒業後1945年4月明治大学に入学した。祖国解放を大学在籍中に迎えた韓校長は10月に結成された朝聯東京向島青年部で愛国活動を開始した。1946年10月に墨田区で開校された朝鮮第10小学校(現東京第5)の教員となり民族教育に携わった。23歳であった1948年5月から1958年3月まで東京朝鮮第10初級学校校長、1958年4月から東京第3初級学校校長を務めた。1959年から61年まで総聯中央教育部指導員、1961年から65年まで愛知朝鮮中高級学校の校長、65年から69年まで総聯中央教育部副部長・ 宣伝副部長を務めた後、1969年4月から77年3月まで本校校長として、民族教育の最前線で30年以上にわたり学生たちを教育育成することに全力を尽くした真の教育者であった。
韓校長が本校校長として活動した8年間は、金日成主席と祖国の愛を受けながら民族教育を発展させた8年間であったが、同時に総聯と民族教育の活動において一部左傾的傾向が生じ教育行政が本来の機能を失い教員たちの団結にひびが入った期間でもあった。この困難な時期に韓校長は混乱を収拾し本校を民族教育の真の学び舎、「民族教育の長子(민족교육의 맏아들)」としての地位を確立する基礎を築いた功績はいつまでも色あせることは無いであろう。
1975年2月、総聯中央韓徳銖議長は本校が創立30周年を迎えるにあたり卒業生と愛国的商工人たちを奮い立たせ、学生たちを知・徳・体を備えた人材が育成出来るように教育環境を整え教育施設を充実させる創立記念事業を行おうと呼びかけた。
韓徳銖議長の呼びかけを受けて75年8月1日に、卒業生代表20人による第1回目の創立記念事業に関する討議が行われた。全9回に及ぶ討議の結果「卒業生たちの力でより良い教育環境を整えた成果で創立30周年を意義深く迎え、これを機に卒業生たちの結束を強化しよう」と意見を一つにした。
そうして1976年3月25日、「東京朝鮮中高級学校創立30周年記念卒業生たちの事業推進委員会」が発足した。事業推進委員会の役員は次のように決まった。会長 盧晋伯(2期、太田支部副委員長)、副会長 金共浩(1期同窓会会長、「時代社」副社長)、許活葉(1期)、朴成民(3期、商工人)、鄭元徳(4期、商工人)、周永讃(6期同窓会会長、商工人)、リュウ・ギョンチュン(7期、商工人)、権圭一(8期、商工人)、金一宇(9期、医師)、金博司(11期、商工人)、高武和(12期、商工人)、具本暁(17期、朝鮮大学職員)、事務局長 白東基(1期、中央教育会財政部長)、朴魯焄(4期、東京中高分会長)、成斗嬉(8期、東京中高副分会長)その他計64人。

推進委員会は学校創立30周年記念事業に参加を呼びかける「趣旨書」を卒業生たちに送った。「趣旨書」は「母校の創立30周年を意義深く迎える一環として卒業生たちの力で母校を民族教育の模範に、現代科学発展の趨勢に合わせ学校の教育施設をより充実させ、民族教育の歴史に残るような事業をしようと合意しました。愛校心に燃える同窓生と卒業生たちはこの趣旨を理解され力と知恵を尽くして母校の発展に寄与することを願い趣旨書を送ります」と呼びかけた。
推進委員会の呼びかけに、そのたった5年前文化会館と2号館校舎の建設に多大な寄付をしたにも関わらず、同胞たちや卒業生たち、多くの学父母たちが立ち上がり、1億2千万円の予算で教育施設の拡張と補修修理を行った。寄宿舎兼食堂であった「金剛寮」の2階、3階に中学生が学ぶ教室と理科実験室、裁縫室、会議室、図書室などを備えた「3号館」として改築した。また、1号館(65年竣工の鉄筋5階建て)に物理、化学、生物の実験室をつくり、祖国から送られてきた贈物を展示する展示室、会議室などを改装して設けた。運動場横(現在テニス場の位置)には民族器楽、吹奏楽の練習場として2階建てプレハブを建設した。

1976年9月26日、本校創立30周年記念運動会が総聯中央韓徳銖議長をはじめ多くの総聯の活動家と同胞、学父母、卒業生ら3000人が観覧する中で盛大に行われた。30年の道のりを表現した集団体操は観覧者たちに感銘を与えた。集団体操の背景音楽に校歌が歌われた。校歌は70年代に入り校内では歌うことがなく、当時校歌を歌える在学生はいなかった。朝高時代に校歌を歌った20代の男子教員4人が運動会当日高級部学生の集団体操の音楽に合わせ声高らかに校歌を合唱した。
10月17日、在日朝鮮人中等教育実施30周年記念中央大会が3千余名の参加のもと体育館で行われた。大会では共和国政務院と教育委員会から送られてきた祝旗と祝電が紹介された。
記念報告をした韓徳銖議長は30年間に朝鮮大学と朝鮮高級学校で32000人の卒業生を送り出したと民族教育の成果について語り、「民族教育は自分の国の言葉と文字、歴史と文化を身に着けた真の朝鮮人に育てるものです。民族教育で主体を確立し、学生たちを民族意識をしっかり持った真の朝鮮人に、社会主義祖国と祖国統一に寄与する人材に育成しなければなりません。」と課題を提起した。
大会終了後、東京中高生600人と東京第4、第5、朝鮮大学校の学生たちによる記念芸術公演が行われた。中央大会の数日後、体育館で500人以上の帝京高校生、日本の高校生と教師、十条地域をはじめ2500人が観覧するなか「東京中高創立30周年」記念芸術公演が行われた。記念公演は日本人をはじめ多くの人に民族教育の素晴らしさを誇示した意義深い公演となった

朝高委員会

学生主導の朝高委員会への転換

1977学年度から朝高委員会の運営を抜本的に変え、学生が主体となった青年同盟の活動に転換した。
1967年以来10年ぶりに、朝高委員会の委員長を学生が担うようになった。青年同盟の活動は青年同盟に加盟している学生たちで組織運営される本来の形態に戻り、朝高委員会担当の教員たちは「顧問挌」として青年同盟の活動を指導・サポートする体制にシフトしたのであった。
高校3年生の韓東成が朝高員会の委員長に選挙された。副委員長に朴今里、組織部長に崔光林、宣伝部長は林王虎、学習部長は申成均などが選ばれた。教員で朝高委員会委員長であった姜昌浩は京都中高に戻り、副委員長であった趙澣柱が責任指導員となり青年同盟を指導することになった。この青年同盟の活動方式は今日に至るまで続いている。
韓東成委員長ら28期生は27期生たちが校内でウリマルを使う運動、クラブ活動や朝青活動で大きな成果を収め、学校創立30周年行事で大きな役割を果たした先輩たちを超える意気込みで新しい青年同盟活動体制のスタートを切った。
今振り返ると28期生は多彩な能力を持った学年であったと言える。100人近くが三つ峠や尾瀬などで行われた夜間登山である「夜間行軍」、映画「人間の条件(1部~6部)」の「オールナイト(徹夜)」鑑賞、中国の「革命小説」と言われた「紅岩」の廻し読みを行った学年であった。
また28期生は、各学校から選ばれた学生個人の学力を競う第5回「全国学科競演試験」でも科目別・総合部門で優秀な成績を収めた学年でもあった。2学期末に行われる「中央統一試験」と同じ時期に、各学校で「学科競演試験」が行われ、授業担当教員が採点した答案用紙を集計し順位を朝鮮新報紙で発表した。
また、現在金剛山歌劇団で活躍している高明秀らが中心になって学年新聞を創った学年でもある。新聞には学校のニュース、投稿欄、クラブ活動紹介や鄭賢淑が連載した4コマ漫画が掲載されているとともに、校歌を韓東成が紹介している。
都立時代であった1952年に作詞林光哲(朝鮮人校長)、作曲崔東玉(音楽教員)の本校校歌は制作されたが、校歌は1970年頃から歌われなくなっていた。しかし高級部20期生くらいまでは全員が歌える歌であり、同窓会、結婚式などで合唱されるのは校歌の他には「この世に羨むものはなし(세상에 부럼없어라)」くらいであろう。
2016年、高3の学生が祖国訪問中に、帰国した1期生たちと会った際、校歌を歌う一期生の姿に在校生は、「校歌で繋がっている先輩後輩」の絆を肌で感じていた。
校歌は1970年頃から歌われなくなっていたが、それを28期生が3年間に渡り歌うことにより「復活」し、1978年3月に行われた卒業式では入場、退場音楽として演奏された。このことは「校歌」が校歌としての地位を復活・確立したことを意味した。この頃校歌を教え歌わせることについて当時の幹部教員から「新しい校歌を作るので、この歌はうたわないように」と幾度も注意されたものであった。校歌が粗末に扱われ一時的に歌われなくなったのは学校で「左傾的」傾向が台頭した1960年代末から70年代中頃までである。
現在、校歌は入学式と卒業式で全校生が斉唱している。祖父・祖母、父・母と三代に渡り歌える校歌を復権させた28期生の功績は大きい。

金日成主席

金日成主席 第1次「在日朝鮮学生青年代表団」を接見

1979年8月、朝高委員会高徳羽委員長(30期、現総聯東京本部委員長)をはじめとした全国の朝鮮高級学校で選抜された「在日朝鮮学生青年代表団(団長 総聯中央教育局副部長金オンナン)」が祖国を訪問した。この訪問団は各高級学校で朝青活動の中核的な役割をはたし在日朝鮮人運動の未来を担う当時の朝高委員会委員長、次期委員長らをはじめとした51人で構成された。
東京朝高では高3 高徳羽、洪成一、太錫新、金秀明、権鐘日、秦栄淑、韓福姫(30期)、高2 金正(31期朝高委員長)、呉哲宗(31期)ら9人が選ばれた。
代表団は祖国訪問中、万景台や「朝鮮革命博物館」、金日成総合大学などを参観し白頭山、金剛山にも登った。当時「主体塔」や「凱旋門」は建設される前だったので「千里馬銅像」が印象に残っているという。
9月11日、代表団は錦繍山議事堂(現太陽宮殿)で金日成主席の接見を受ける栄誉を担った。
学生責任者であった高徳羽は、主席と逢うことが出来た感動に心震えながら「朝鮮革命を領導する貴重な時間を割いて、私たちに会って頂き大変有難うございます」と挨拶を始めたが感激のあまり涙があふれ、言葉に詰まってしまった。すると主席は高徳羽と学生たちに慈愛にあふれた言葉で「有難う」、「君たちが主体思想を持った革命家になること願っています!(동무들이 주체사상으로 무장된 혁명가로 되기를 바라오)」と期待を表明された。
主席は学生たち一人一人に主席の名が刻まれた腕時計を手渡して下さった後、代表団と記念撮影をされた。この場に共和国創建31周年の祝賀団団長李珍珪副議長が同席した。
また学生青年代表団は、金日成主席を補佐する若き「信愛なる指導者」金正日総書記の活動について解説を受けた初めての学生であったと言える。
高徳羽をはじめ代表団の学生たちは祖国訪問を終えた後、金日成主席の愛と配慮に応える一心で学業に励み朝青活動で模範となった。現在も彼らは総聯の活動家として、また総聯支部・分会活動をバックアップする熱誠同胞として、在日朝鮮人運動発展や民族教育の守る最前線で役割を果たしている。
この後も朝青活動で模範となった全国の高級学校の学生たちを選抜して祖国訪問を行っている。今学年度も本校の8人を含む35人の学生たちが「第39次在日朝鮮学生青年代表団(高2代表団)」として祖国を訪問した。

35周年

学校創立35周年「模範学級」の祖国訪問

創立35周年を迎えた1981学年度、学生たちは祖国解放直後から35年間、祖国の愛情と配慮を受けながら民族教育の道を切り開きあらゆる苦難を乗り越え朝鮮学校を守り発展させた一世と二世たちの愛国心と民族愛、若い世代に託した期待を胸に刻み「学校創立35周年記念公演」を成功させ民族教育の正当性と優越性を内外に示そうとの意気込みで学校生活を送った。
1981年9月27日東京中高創立35周年運動会が行われ、集団体操「チュチェの旗のもとに輝く民族教育」の気迫こもった演技に大きな声援が送られた。
1981年11月1日、中等教育実施(東京中高創立)35周年を祝う在日朝鮮人中央大会が体育館で盛大に行われた。大会には総聯中央韓徳銖議長、李珍珪副議長、徐萬述事務総局長らが参加した。日本社会党、日本共産党、日本教職員組合の代表が挨拶をした後、韓徳銖議長が記念報告を行った。
韓徳銖議長は在日朝鮮人中等教育の35年の歴史は金日成主席の賢明な指導の歴史であり、同胞子女たちに肉親的配慮を尽くされた愛の歴史であり同胞たちや教員たちやの献身的な労苦が刻まれていると報告した。
韓徳銖議長は報告で中等教育の歴史を「7つの時期」に分けた。

①1946年~49年:中等教育の基礎を築く時期
②1950年~54年:民族教育の受難旗
③1955年~59年:民族教育の自主権を回復し主体を確立した時期
④1960年~65年:祖国との関係が強化され民族教育が新しい発展を迎え昂揚した時期
⑤1966年~71年:祖国往来が実現され民族教育を自己の力で主導的に発展させた時期
⑥1972年~74年:民族教育の新しい深化発展の時期
⑦1975年~現在(1981年)民族教育に新しい開花発展の意義深い時期

韓徳銖議長は報告の最後に、90年代そして21世紀に生きる未来の主人公たちにより良い民族教育を行わなければならず、同時に教員たちに対する期待も大きいと訴えた。
大会終了後、本校学生と都内の初中級学校学生らによる芸術記念公演「栄光の35年(은혜로운 해빛아래 걸어온 영광의 35년)」が上演された。
公演は、困難を乗り越え母国語による中等教育の切り開き今日に至った喜びを表現した、高級部3年生の大合唱「新しい歴史を築いてきた」で始まり、本校の伝統となった総勢70人の群舞「万豊年」と高級部3年生の大合唱「統一広場で万歳を!」でフィナーレした。
11月3日には日本の学界人士、教員学生、近隣住民など2000人を招待して行われた創立記念芸術公演「栄光の35年」は大きな反響を得た。
公演を観覧した日本の教師は「今日はとても感動しました。日本人教師として自分の教育に自責感を持ちました。日本の教育に比べて朝鮮学校の教育がどれだけ立派なものであるか証明しています。」
また友達に誘われてきた女性は「こんな芸術公演は見たことがない。あまりにも立派な公演だった。」、「プロのようで素晴らしい。日本にいることを忘れるようでした。普段の練習は大変だったのでしょうネ。プロ並みですよ。私、学生さんじゃなくてプロの人かと思ったわ」と公演の水準の高さに驚いたと感想を述べた。
高3に進学した32期生たちは在日一世たちのように在日社会を守り祖国の統一のために尽くそうと卒業後の進路を選択した学生たちが多くいた。「朝青学生代表団」で祖国を訪問した朝高32期委員長の金成鳳や男子クラスの班長であった金英哲などが中心になり男子学生たちが夜遅くまで在日社会を守り祖国統一に如何に寄与するかなどを繰り返し討論した。
卒業を目前にした3学期に栃木県那須で講習会が行われた。(卒業前に行う「講習会」は1960年代から行われており70年代までは進学しない学生たちが大宮にあった「関東学院」で一か月ほど講習会に参加した。)「那須講習会」で学生たちは近くのスキー場でのスキーや、先輩や講師などの経験談、講義などを聞き、分組、学級、学年全体で討論した。
32期生たちは「1980年光州人民蜂起」を思い起こし「学校創立35周年」の基礎を築いた一世たちの業績を見習いながら卒業後の進路を深く考えた。32期生は卒業生428人中130人が朝鮮大学校に進学し、188人が朝銀・朝鮮新報社・商工会など総聯の団体などに就職した。このように32期生の75%が朝大、総聯関係に進路をきめ、22人もの学生が朝青イルクン(専従)になった。
このような学校生活・勉学・朝青活動の成果をもって1982年1月「朝青活動模範学校」の表彰を受けたのであった。
また在日朝鮮人運動を牽引した人材を輩出し、民族教育の発展に果たした本校の長年の功績によって1982年3月17日「金日成勲章」が授与された。「金日成勲章」は共和国の最高勲章であり、この勲章を受けた学校は現在まで本校の他には朝鮮大学校のみである。

修学旅行による祖国訪問が実現したのは1991年からであるが1982学年度から全国の朝鮮高級学校の高3を対象に勉学と朝青活動で著しい成果を残し「模範班」の表彰を受けたクラス全員が当時学生たちの念願であった祖国訪問をできるようになった。1982年8月、高級部3年8班(担任 康敏淑)と10班(担任 姜尚子)の女子学級が、全国初の「模範学級」として祖国を訪問した。(団長 金順喆教務部長)
この当時は全ての学生が祖国訪問できなかった時期であり「模範学級祖国訪問」は非常に誇らしいものであった。約一か月間祖国を訪問した8班、10班の女子学生は10月に行われた運動会の昼に行われた「クラブ別行進(소조행진)」でクラブ最後にサッカー部が行進したその後に「模範学級旗」を掲げ行進した。サッカー部の力強い行進と遜色ない8、10班の行進は学生と学父母、同胞たちから大きな拍手を受けた。その後3班と商業班も「模範学級」として祖国を訪問した。
「模範学級」の祖国訪問に先立って4月から7月にかけて全国の朝鮮高級学校の高3、高2の学生を選抜して祖国訪問を行い、本校では第1次と第2次に分かれ40人ずつ80人が祖国を訪問した。朝高生たちの修学旅行などは、この1982年4月の第1次祖国訪問団を起点として訪問次数を決めている。2018学年度東京朝高の高3修学旅行は「560次朝高学生祖国訪問団」であった。
1982年に祖国を訪問した学生たちは「南山高等中学校(現ピョンヤン第1中学校)」や「金日成総合大学」を参観した。これらは金正日総書記が学生時代に通った学校であり校内には総書記の学生時代の写真や読んだ書籍、自筆されたノートなどが展示されていた。こうして学生たちは「親愛なる指導者」金正日総書記の人物像に初めて接したのであった。
1983年には教員や学生たちが金正日総書記の伝記的図書「人民の指導者」の学習によって総書記を身近に感じ、金日成主席を補佐する若き指導者としての認識を深める大きな契機となった。このような過程を経て1984年4月から、本校の教室に金日成主席と金正日総書記の肖像画を掲げるようになったのである。
1985学年度から最新機種コンピュータ40台を備えた教室で「情報処理」授業が始まった。このコンピュータ室は権章海氏(17期)の2000万円の寄付金によって設置された。
1985年10月、在日朝鮮学生中央体育大会で優勝したチームが祖国を訪問し朝鮮の同年代の青年たちと親善試合を行った。東京中高ではサッカー(主将 金承革)、バレーボール(主将 金竜進)らが祖国を訪問した。

李三才先生

李三才先生

波乱の1970年代から80年代にかけた本校の20年間をふり返るとき、生活で問題の多い男子学生を「制圧」し、校則に従い学校生活を送れるように教員たちの先頭に立って学生たちを指導し、70年代に頻発した朝高生への集団事件などで警察の「少年課」と渡り合い学生たちを守るため獅子奮迅した李三才先生を語らずにはいられない。 李三才先生は学生たちが「最も好きで受けたい授業」をする教員で、社会科の後輩教員たちにとって手本・目標であった。また酒を飲みかわしては、悩みを聞き励まし教員たちから頼りにされた「兄貴分」であった。

この当時、李三才先生を知らない学生はいなかった。

長野県出身の李三才は、中学校まで日本の学校に通っていた。1959年12月、朝鮮への帰国の道が開かれ長野の同胞社会も沸き立っていた。身近な親戚たちが帰国するのを見ながら「祖国に帰ろう…」と思った李三才はそのためにウリマルを習わなくてはと1960年4月、本校に入学した。
入学した李三才は朝鮮語、朝鮮の歴史、地理を習い朝鮮の友達と生活する過程で朝鮮人としての誇りと自覚をしっかり備えた朝高生へと成長したのであった。高3の進学を目の前にした時、1962学年度新学期から朝鮮学校の教員を養成する「師範科」が創設されることが決まった。朝鮮への帰国が始まると日本学校に通っていた子供たちが朝鮮学校へ編入するようになり学生数が急激に増え日本各地にいくつもの朝鮮学校が出来た。この状況に対応すべく教員養成を朝鮮大学だけで無く東京朝高と大阪朝高に「師範科」を設置したのであった。
「師範科」が創設されることを知った李三才は新設された「師範科」3年(東京中高師範科1期生)に籍を移し朝鮮学校の教員になる準備をした。李三才は朝鮮語と朝鮮の歴史、文化を知らず民族虚無主義に陥った自身の過去を思い1963年4月、日本の学校に通う子供や青年たちに朝鮮語を教え、民族心を育む決意で長野県大町「夜間学校」の教員として赴任した。
情熱をもって教えたが「情熱だけでは教えられない。もっと実力を持った教員に成らなければ」と1964年4月に朝鮮大学の歴史地理学部に入学した。「朝鮮大学の4年間は私の人生の重要な期間であり、人生の新しいスタートを切り同胞社会により貢献できる活動家に成長するための貴重な4年間であった」と李三才は回顧している。
1968年4月、母校に赴任した李三才は情熱的に学生たちと向き合いながら日々を送った。李三才はこの時のことを「無我夢中で、教員というよりも『学生たちと相撲をしている』ようだった。深く考える余裕もなく昼の食事も忘れるほどだった」と振り返っている。1968年は民族教育などの部門で愛国運動を極左的に導こうとする誤った傾向が表れ、朝青活動などで弊害が出始めた複雑な時期であった。校内の秩序が乱れ始め教員たちが退勤するのは午後9時、10時なることが当たり前であった。
李三才は帰りが遅くなると学校で宿泊して翌日の教授の準備をすることが多かった。日曜日にも学校に行かないと心が休まらないようであったという。
李三才の歴史の授業は学生たちが集中して勉強した。「男子学級で授業が成立していたのは李三才先生の歴史の授業だけだった」、「歴史をいろんな角度から面白く話し、分かりやすかった」と多くの卒業生が語っている。「教員は10年やって一人前」と言われるが李三才は新任当初から授業の水準が高かったのである。現茨城朝鮮初中高校長 尹太吉は、「李三才先生の授業が大変参考になった。授業の導入で学生の興味を引き45分間が短く感じるほど、学生たちが集中する授業だった。板書がきれいで掛図(直観物)も丁寧、視覚的に素晴らしいものだった」と当時の思い出を語っている。
70年代、李三才は校則を守らない学生の指導を徹底的に行った。
登校時は校門にて校服違反を厳しく指導した。校門で裾の長い学生服をハサミで切られた学生が何人もいた。規則を破り教員たちに逆らう学生は徹底的に指導し時には「蹴り」が飛んだ。当時の男子学生の合言葉の一つが「李三才には逆らうな」だった。校外で「事件」が起きたら最初に動くののも、警察の「少年課」から学生を引き取るのも李三才であった。
李三才は問題を起こす学生たちを心から諭し目標を持って生活するように指導した。問題を起こしやすい学生たちを夏休みに新潟の民宿に連れて行き「講習会(말썽강습회)」を行った。この講習会に参加した学生たちは例外なく講習会に呼んでくれたことを感謝し真面目に学校に通う気持ちを持つ学生たちが多かった。このように学生たちにとって李三才は「怖いけど尊敬する」教員であった。
高徳羽(30期、現総聯東京本部委員長)は「情が深く『義理・人情』の先生であった。『校則違反』には厳しかったが学生思いで学生たちの相談意見には誠実に対応してくれた。朝高委員会の委員長であった私がある時、校則問題で学生たち数人と李先生に『談判』をしたことがあった。李先生は学生たちの意見を真剣に聞き問題を解決してくれた。また、校服違反を集団で行う『暴動』を起こそうとしたとき、学生たちに、『これからも何十年も付き合っていく教員と学生の信頼関係が壊れてもいいのか』と諭された。李先生の気迫と情により『暴動』は起こらなかった。尊敬する先生であった」と思い出を語った。
李三才は若い教員たちをかわいがり面倒も見ていた。1972年に朝鮮大学を卒業して音楽担当の新任教員として赴任した趙邦祐(元大阪朝高教育会会長)は、「何回も李三才先生の家に招待され食事した。ある時は、飯を炊く米も無いと夫婦で争いになったことがあった。家に呼んでくれたことに対するありがたさとともに、『教員は大変だな』と思ったことを、今でも思い出す」と話す。1972年に日本の大学を卒業して朝鮮語も話すことが出来なかった具大石(元東京中高校長)は「情があって先輩の教員たちには礼儀正しく接し後輩の教員たちには優しく真心を持って引っ張っていた。頼んだことはいつも引き受けてくれた。新任当初、暖かく教えてくれたことに今でも感謝している」と語った。
卒業アルバムは学生時代を懐かしく思い出すことが出来る宝物であるが1967学年度から1977年度まで11年間卒業アルバムを作らなかった期間がある。「顔写真が外部に漏れたら問題が起きる」という理由であったという。1978学年度に高3学年主任を務めた李三才は、「卒業アルバムを作り学生たちに贈ろう」と高3の教員たちに「命令」し、教員と学生たちで卒業アルバムを編集、印刷所まで探し、卒業式の日に学生たちに配った。「卒業アルバム」の復活は李三才の学生に対する責任、愛情の賜物と言える。
李三才は2007年に本校教育会会長を辞めるまでの約40年間、生活指導部長、学年主任、分会長、教務部長などを歴任した。
李三才は教員成生活をふり返り「5人の校長(南日龍、韓明洙、宋都憲、蔡鴻悦、具大石)と300人近い教員や社会に送り出した約一万人の卒業生とその学父母を、東京中高を通して出会うことが出来た。今日までの人生は失敗も多く足りないことも多かったが後悔は無く、やり甲斐があった教員生活であった。東京中高は我が『青春』!、我が『人生』!」と語った。

40周年

男子学生の校服を「ブレザー」に指定して学校創立40周年を迎える

学校創立40周年を迎えた1986年、草創期以来男子学生の校服であった「学ラン」を「ブレザー」へと校服の変更を行った。この男子学生の校服の変更は「校服」を変えたことだけにとどまらず東京中高の新しい飛躍のスタートの出発点になった画期的なことであったといえる。
1970年代に入って日本の学生たちの間で過度に丈が長く詰襟が高い「応援団風の学ラン」が流行したがその影響を受け詰襟が6㎝もあり、丈が膝まである学ランを着たり、裏地には龍や虎の刺繍した学ランを着る学生が増え始めた。この違反校服を着るのは当時朝高生に対する集団暴行事件を起こす国士舘高校・大学生などになめられないようにするためだと言い訳する学生もいた。この当時男子学生の70%が学ランをあつらえており、既製品の学ランを着ている学生は少数であった。
これらの校則違反に対して学校では男子学生の校服は「詰襟4.5㎝まで、丈は腕を下したとき親指の第一関節まで」とした「服装規定」を示したが服装違反をなくすことは出来なかった。
70年代以降、「服装違反」の指導は教員と学生との感情の対立にまで繋がることもあり教員たちは服装違反指導に疲れていた。
服装違反をする学生たちが非行を行う学生でもなかった。違反校服を着ることは小学生のころから先輩たちを見ながら自分たちも高校生になれば当然着る「文化」であった。
それに変化をもたらしたのは、「創立40周年学生」として1984年に入学した37期生たちであった。
学生たちは入学して校則違反をすることなく学校生活を送っていた。しかし運動会が終わり秋の遠足を終えた月曜日の朝のことであった。8時50分から始まる高1の支部朝礼に集まらなかった男子生徒たちが、9時を過ぎたころ詰襟の高い「違反学ラン」を着てやってきた来たのである。これは高1の男子学生が学校にたたきつけた「挑戦状」であった。教員たちもこれを見過ごすわけにいかなかった。しかし、数十人の「校服違反」学生を集め、叱り、小突いていた時、当時の教員が学生を鉄パイプで叩き怪我をさせてしまったのであった。その日の夜、男子教員たちの責任者が李教員を連れて学父母たちに謝罪をするため怪我をした学生の家を回った。
この「事件」が「ブレザー導入の始まり」であった。高3になるまでの間「違反」・「注意指導」・「学生服没収」の繰り返しであった。学生たちと話しあい、教員学生全員で討論もした。教員たちも学ランで学生生活を送った元朝高生であったので「ブレザー」には拒否感もあった。37期生を担当した教員たちは「教員たちも『ブレザー』にしたくない。そのためには校服規則を守れ」と繰り返したが学生たちは「朝高の伝統・学ランを守る」と教員たちの言葉を聞き入れなかった。
教員たちも「創立40週年」を東京中高発展の新しいスタートにしようと必死であった。高2の男子学級の担任だった李成樹、申英浩、李漢圭、金正と筆者らは学生たちと校服問題でぶつかるのはつらいことでもあったが心を一つにして学生たちに向きあったのであった。
学生たちも悩みに悩んだ。学ランは「朝高の伝統」であり登下校中「朝高生を守る鎧」であると、これ以外の校服は考えることも出来ない学生たちであった。また先輩たちの「お前らの代で朝高の伝統を終わらせるのか」の「激励」と後輩たちもの「学校に負けないで」の「声援」は大きなプレッシャーであった。
学生たちはクラス別、出身校別、クラブ別の討論や意見交換を繰り返えした。女子学生までが話し合いに加わった。学生たちの「討論」は教室で、運動場で、部室で数えられないほど繰り返し行われた。学父母たちも学校の「新校服」の導入を支持した。高3進級を目前にした金鐘寿(37期朝高委員会委員長)ら多くの学生たちは「東京中高を守る新しいスタートのため」と「苦渋」の決断をして「登校拒否で入学式をダメにしよう」という意見を乗り越えた。これは朝高生たちの心の中に常に祖国と指導者に対する敬愛の情、祖国統一と同胞社会に寄与する意思、友達と集団に対する思いやりがあったためである。朝高生たちが民族教育で培った祖国観、人生観、物事に対する判断基準。「新校服」はこれらの考えを持った学生たちが悩みながら出した「結論」であった。
こうして新入生だけでなく、高級部の男子全員が一気に「新校服(ブレザー)」を着用することとなった。「新校服」で入学式を行うため、教員たちは春休期間中も「新校服」導入の準備に追われた。
1986年4月1日、入学式は教員たちの心配をよそに男子全員が「新校服」を着て新入生を迎えた。男子学生の「新校服」への移行は東京中高が民族教育の本来の目的に向かい飛躍する画期的な契機となった。それまでの教員対学生の感情対立まで引き起こした「服装指導」が無くなったことは教員たちが授業や朝青活動、クラブ活動に専念出来るようになった事を意味した。
「新校服」移行への陣痛を乗り越え高3に進学した37期生たちは「40周年学生(마흔돐학생)」の使命を胸に刻み、「ウリマル(朝鮮語)100%と99%の違い」について考え、無遅刻・無欠席運動に力を注ぎ、「模範学級」運動に邁進した。結果、高3の12学級中7学級が「模範学級」表彰を受け祖国訪問を果たした。
1986年9月、「サムジヨン」号に乗り祖国を訪問した3年1,4,8,10班は金日成競技場で行われた「大集団体操」を見て驚嘆し、「金日成広場」の夜会で祖国の青年たちと愉快に踊り、「特別飛行機」でサムジヨンに着き、雪跡が残る白頭山に登り天地を見た。感動の連続の祖国訪問だった。9月14日、ピョンヤン順安飛行場で行われた外国の大統領の朝鮮訪問の歓迎式に学生たちが招待された。「金日成元帥万歳」の大歓声を受けながら金日成主席は外国大統領と飛行場を歩きながら群衆の歓迎を受けられた。その歓迎隊列の最前列にいたのが東京中高の学生たちであった。金日成主席は学生たちを見ながら大きく手を振られた。教員も学生も涙を流しながら「万歳」を連呼した。訪問団は主席の車のすぐ後を追い100万市民の歓迎隊列を見ながら宿舎のホテルに向かった。
この「模範学級」の祖国訪問は学生たちが一生忘れる事の無い思い出となった。
1986年10月5日、本校創立40周年を迎えたその日「東京中高創立40周年記念運動会」が行われた。運動会史上一番の出来だったと「自己満足」した高3男子学生の6mを超える「5層塔」の成功、40年の歴史を表現した集団体操は同胞たちに感動を与えた。
1986年10月25日、在日朝鮮人中等教育実施(東京中高創立)40周年記念中央大会が東京中高体育館で行われた。
大会で韓徳銖議長は本校に33点の民族楽器が共和国から送られてきたことを報告した。また大会では、民族教育の発展に尽力した金達龍(3期、元東京中高教務部長、)ら4人に「共和国功勲教員」の称号が授与され、1156人の同胞・商工人が表彰された。
大会終了後、本校創立40周年を祝賀して音楽舞踊叙事詩「栄光の40年」が上演された。
公演には本校学生と、賛助出演した東京第1初中級学校の学生1,000人以上が出演した。公演は、第一章「解放された民族の抱負を胸に」、第二章「中等教育の開花期」、第三章「祖国の暖かい陽光のもとで」、第四章「朝鮮は一つだ!」で構成された。
公演演目で学校建設の様子を舞踊で表現した「建設の舞」や「愛の虹の橋」、「万豊年」に男子学生が出演することになったのだが、中央体育大会や運動会などで本格的な練習を始めたのが10月の初めであっただけでなく舞踊経験のない体育クラブの男子学生を起用したため練習が捗らなかった。この状況を打開するため任秋子(共和国人民芸術家・朝高5期)が自分から進んで指導を買って出てくれた。「舞踊部」の男女学生の必死の練習が実を結び「建設の舞」、「万豊年」は大成功し、観客は大きな拍手を送った。公演を観た同胞は「1966年の『大音楽舞踊叙事詩』以来の感動を憶えた」と公演を絶賛した。

公演は2日間にわたり計3回行われたがどの公演も演目が終わる度に大絶賛の拍手が沸き起こった。同胞たちは涙を流しながら民族教育の「栄光の40年」の道のりを顧みていた。
舞踊の女子学生は「今まで多くの公演に出演したが、全校生で歌を歌い、楽器を奏で、その中で踊った『40周年公演』のような感動は初めて」と心情を語った。
『40周年公演』の成功には全教員が総出動しただけでなく卒業生と音楽・舞台関係の専門家のフォローがあった。
2学期に入り祖国訪問、中央体育大会、運動会、40周年公演を立て続けに行ったがどれも立派にやり遂げ創立40周年を意義深く記念した。
(この37期生『40돐졸업생』は東京中高連合同窓会の中心メンバーを成しているだけでなく青商会活動などで民族教育と同胞社会を守るため尽力している。昨年(2018.11.24)に行われた「37期」同窓会が盛大に、楽しい雰囲気で行われたのも苦しく、楽しい、意義深い高校時代があったからであると言える。この同窓会で学校に50万の寄付をしたが、その寄付金で大型モニターを購入し教室に備えた。)
1986年9月10日、東京ガーデンパレスで東京中高1期生から36期生までの期別同窓会の会長、幹事などによる期別同窓会連絡会の総会が行われた。総会で東京中高連合同窓会が発足され、会則の発表と役員を選出した。会則は連合同窓会の目的を東京中高に在籍した者たちの連携と親睦を図り母校の強化発展のために努力することと定め役員の任期を5年とした。

連合同窓会の役員を以下のように決め活動を始めた。
会長 鄭原徳(4期)、副会長 高元芳、朴基碩、朴大鉄(8期)、羅泰龍、朴秀道(10期)、李忠士(11期)、幹事長 朴基碩、常任幹事:成斗嬉(8期)、林韓柱(14期)、相談役 白東基(1期)、朴東洙、盧晋伯、崔相羽(2期)、高浩京、権載玉(3期)、事務局 康貞奈(21期)とし、1期から25期生までの期代表を定めた。

10月26日には京王プラザホテルで連合同窓会主催の学校創立40周年記念「大同窓会」が盛大に行われた。「大同窓会」には総聯東京本部裵秉斗委員長が参加した。

この期別同窓会連絡会の総会を紹介した朝鮮新報の記事(1986.9.15)は本校を「民族教育の長子(맏아들)」と表現した。
また、韓徳銖議長は中等教育45周年の記念大会(1991.10)で本校を「中等教育の長子(민족교육의 맏아들)」、創立50周年を迎えた2001年9月、教員たちに「東京中高の50年の歴史は在日朝鮮人運動の50年」であると、その位置や役割を明示した。